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9.住みたい町/ロバート・ハリス、家を建てる。

旅人でも家について考える時がある、と以前このノートに書いたが、旅をしていて新しい国や地域に行くと、ぼくは果たしてここに住めるだろうか、住めるとしたらどのくらいの期間ここに住んで、どんな暮らしをするだろうか、といったことをよく考え る。そんなことに思いを巡らすのが楽しいし、気が つくとそうしている自分がいる 。

大学を卒業してすぐ旅に出て、東南アジアを数ヶ 月彷徨ったあとに立ち寄ったバリ島は想像以上に素 晴らしいところだった。1972年のこと。ぼくと、ア メリカの大学で知り合った妻のゲイルは 共に作家志 望で、長い旅の途上にいた。

当時のバリ島は今とは違い、観光地としては まだま だ知られていないところ だった。日本人観光客はほ とんどいなかったし、旅人の多くがヒッピーだっ た。そう、髪を長く伸ばし、ロマ人のようなカラフ ルな格好をしたヒッピーたちが世界中からこの島に 集まって来ていた。

ぼくたちはクタビーチにしばらくいた後、山間の村 ウブドへ行き、ここに一年近くいた。当時のウブド は電気も水道も通っていない、小さな里村だった。 今ではレストランやカフェやホテルが立ち並ぶモン キーフォレスト・ロードも当時は田んぼの畦道に毛 の生えたような未舗装の土の道で、両端には田んぼが延々と広がり、夕方には赤トンボが飛び交い、夜 になると蛍が乱舞した。

ぼくと妻は朝には猿の集団が暮らすモンキーフォレ ストの前の滝壺で泳ぎ、日中は村外れに借りたコテ ージで寛ぎ、夕方になると近くのチャンプアン川で 水浴びをしたり、村で友達になったヒッピーの旅人 やバリニーズの若者たちとつるんで遊んだ。夜には 村にあった数少ない飯屋で食事を取るか、コテージ に友人たちを招いて会食した。

理想的な毎日だった。刺激が欲しくなると乗合バス を乗り継いで海岸沿いのクタビーチや、ヒッピーの コミューンのような民宿施設のあったレギヤンビー チへ遊びに行った。クタには洒落たレストランもあ ったし、ディスコやバーもあった。英語の本を売る 古本屋や、アウトドア・カフェもあった。友人たち とレンタル・バイクに乗って島のあちこちを探検し て回り、気に入ったところがあればそこに何日か滞 在することもあった。

あれから半世紀近く経った今、バリ島はすっかり観 光地化され、海岸線沿いにハイウェイが出来たり、 ウブドには何百というホテルやレストランが建ち、 蛍も見えなくなってしまったが、ぼくは未だにこの 島が好きだ。ここにはこの島特有の豊かな文化があ り、芸能があり、信仰がある。美しい自然があり、 日本にどこか似た田園風景がある。人々もフレンド リーで、異文化に対してびっくりするぐらい寛容 だ。

ぼくはあれから今まで、バリへ20回以上遊びに行っ ているし、10年間ほど、友人3人とウブドの町外れに 「エグザイルス・カフェ」というレストラン・バー を経営していた 。今でも多くの友達がクタやレギヤ ンやウブドに住んでいる。20年近く前、ウブドのバ リニーズの友人からチャンプアン川を見下ろす丘の 斜面の土地を購入し、ここに家を建てる計画を練っ たこともある(いろいろあって、けっきょく家を建 てるのは諦め、土地は友人に返してしまったけれ ど)。そんなわけでバリ島はぼくにとって、いつまでも、第二の故郷のようなところだ。

オーストラリアのシドニーでは 16年暮らし、街のい ろいろなところに住んだが、一番好きだったのはダーリングハーストやキングスクロスといった、 ダウ ンタウンの一角。カッコいいカフェがあり、ボヘミ アンなブックショップがあり(その一軒 はぼくが経 営していたのだけど)、面白い人間が集まるクール なバーやクラブがあり、タイやヴェトナムやギリシャ料理を出すエスニックなレストランがある、大き な街の中のこぢんまりした村のようなところだ。ぼくが初めて購入したテラスハウスもこの地域にあっ た。

ギリシャのエーゲ海に浮かぶパトモス島という小さ な島もいつか住んでみたいところだ。ここはその 昔、ローマ人に追放された聖人ヨハネが洞窟で「黙 示録」のヴィジョンを見た所として有名で、観光地 としてはそれほど知られていないが、聖地として世 界中から巡礼者が集まってくる所だ。

緑に囲まれた面積38平方kmの山がちのこの島には スカラという活気に満ちた港町があり、丘の上には 大きな修道院の周りに白塗りの家々が建つ迷路のよ うなホラの町がある。ぼくはエーゲ海の紀行本を書 くためにこの島に1週間ほど滞在し、ほとんどの時 間をホラの町の外れにある友人の別荘で過ごしたの だが、この島でなら1年でも2年でも楽しく暮らせる気がした。

「ホラのどこかに見晴らしの良い家を借り、毎日執 筆に励み、人恋しくなればスカラの町へ降りていっ て「アリオン カフェ」(よく行っていたオープンス タイルのカフェ)でコーヒーを飲み、町をぶらつく。夕方にはカンポスビーチ(島の南東にある美し いビーチ)の「ジョージス・プレイス」(イギリス 人のジョージが経営するビーチサイドのクールなレ ストラン・バー)へ行って白ワインを飲み、ひと泳 ぎしたあと砂浜で夕焼けを眺める。夜には月明かりを頼りにホラの迷路を歩き、広場の「ヴァゲリス」 (ムサカがとても美味しい小さなレストラン)で夕食をとる。そして深夜、海を金色に染める月を見な がら一人静かに読書を楽しむ. . . . 」
紀行本『幻の島を求めて』(東京書籍)では次のように書いている~
そんな優雅な生活が容易に想像できる、素敵な島だった。

雑誌の取材で行ったシチリアのパラッツォ・アドリ アーノ村も素晴らしい所だ。山に囲まれた谷間にあ るこの村は映画『ニュー・シネマ・パラダイス』が 撮影されたロケ地。数百年前からほとんど何も変わ っていない古い里村で、村の中心に石畳の広場があ り、広場を囲むように教会が2つ、バル/カフェが4 軒、ピッツェリアが一軒、素朴なホテルが一軒あ り、あとは何もない。村の東側には村人たちの家々 が寄り添って建ち並び、その間を細い道が網目のよ うに走っている。

この村のユニークなところは夜になると村人たちが広場に集まり、バル/カフェでコーヒーや酒を注文 し、それを手にみんなと楽しそうに会話しながら広 場を歩いて回ることだ。映画とは異なり、この村に は昔から映画館はおろか、ゲーセンやビリヤード場 と行った娯楽施設が一切ない。だから毎晩、村人た ちは広場に集まっておしゃべりを楽しむのだ。これ こそエンタテインメントの原点と言えるかもしれな い。

ぼくはこの村に5日間滞在し、多くの村人たちと 仲良くなった(この村にそんなに長く滞在する旅人 はあまりいないみたいだ)。みな、映画の登場人物 たちと同じように、良い感じにネジの緩んだ人ばか り(彼らの多くが映画のエキストラとして参加して いる)。昔コマンド部隊にいたというペペというゴッツイおじさんとは特に親しくなり、山に広がる彼 の土地の一角を「いつかここに家を建てる」ということを条件にプレゼントされた。

このように、いつか住んでみたい なと思うところ はまだまだ世界の至る所にある。モロッコの海沿い の町、エッサウィーラや内陸の「赤い街」マラケシ ュ、一昨年訪れたグアテマラのアティトラン湖のほ とりにある町、サン・マルコス・ラ・ラグーナ、カ リフォルニアの モントレー、シチリアのエリチェと 映画『ゴッドファーザー』が撮影されたフォルツ ァ・ダグロの村、イタリアのシエナ、 などなどであ る。

そんな中、ぼくの家がある横浜の東横線沿いの町 も大好きなところ。ぼくの家は丘の上の静かな住宅 地にあり、近くには神社とお寺があり、小さな林があり、児童公園もいくつかある。丘の下には昭和レトロの仲店通りのある商店街が広がり、地元の人々と近くにある大きな大学の学生たちでいつも賑わっている。商店街には居心地の良いカフェが何軒かあ り、バーも洋食屋もビストロも中華屋もパン屋もお 菓子屋もラーメン屋も書店も古本屋もレコードショ ップもある。

ぼくは執筆に疲れるとよくこの商店街を散歩するの だが、店の顔馴染みのおっさんたちが「よう!作家先 生が庶民に会いに山を降りて来たね!」といった感じで声をかけてくれる。ぼくは生まれ故郷の横浜の街が大好きだが、その中でも特にその横浜のこの小さな「町」が好きである。

体が元気である限り、ぼくは上述した世界の町や村 のどこかにしばらく暮らしてみたい と思うし、また 新しい「住みたい場所」も探して廻るつもりだが、 ぼくにとって終の住処となるのはやはりこの横浜の 一角にある町である。

だからこそ、ぼくはここに今、新しい家を建てようとしているのだ。

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