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100「パンゲアをはこぶ龍」

 林檎をかじる。雨の湿気が腐食をすすめてゆく。林檎を出してくれた男は、自転車屋の息子で、わたしの幼なじみである。口数はすくなく、一本の錆びついた刀を持ち、果物屋の未亡人を愛している。趣味であつめている赤い花は、珍しいものばかりである。刀とならべられるほどの痩身をゆらし、そのうちに、激しさとせわしなさを秘めている。


 街から、人が消えてゆく。大陸が、分離してゆく前からそうであったように、1匹の龍が、公営団地に稲妻を落とし、ちいさな火事をひきおこす。それが、龍の最後の稲妻となり、龍は、積乱雲のなかへもぐりこんでゆく。雨の商店街で、電灯だけが、墓のようにならび、ぼんやりと、汚れた道を照らしているばかりだ。くりかえしおこなわれた銃殺で、いまもかすかに、死の香りを忘れぬ街。うしなわれようとする街の名をつぶやくと、彼も、水滴のように、同じことをつぶやき、刹那、ちいさく舌打ちをする。


 駅員のいない、廃線のような高台の駅で、湿ったベンチに座る。明かりはなく、ただ、暗黒のみがそこにある。わたしは、龍の背に乗っている。貨幣と、裁判ばかりの街。わたしたちは誰も、この商店街から、抜けだすことはかなわないのだ。落ち葉を喰う子らは、貨幣を憎むゆえに、薔薇の刑法ですいあげられ、消滅していったのだ。あとに残された、うつくしい紅葉を、誰も、見ることはなかったのだ。


 果物屋の未亡人は、父の帰りを待っている。巨大な太鼓の音に身をちぢめ、林檎をわずかにかじりながら、ふいに、店先に錆びた刀が置かれていることに気づく。それを黙って見つめながら、涙があふれるまで、未亡人は、刀をひろいあげないことに決める。

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