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076「ダージリン」

 厳冬の早朝、紅茶屋の女将が、門のまえで、立ったまま死んでいる。質素な生涯に、いかなる矛盾もなく、着物の袖は、朝露に濡れている。女将の立つ場所を、何人もの人々が通りかかるが、女将が、茫然と思索に耽っているようにも見えて、静かに、通り過ぎてゆくばかりだ。ダージリンの香りがする。ついに、運送屋の少女が、女将の、蝋のような肌に気がつく。少女の息は詰まり、女将の雅な香水の奥から、かすかに流れる死の香りを感じとる。


 団子のような月と太陽が、どちらも地平線に串刺しになったままの早朝。死んだ女将を、憑かれたような人々が、空虚に、取りかこむ。誰が、どのような感傷に沈んでいるのか、知るよしもない。ただ、あらゆる視線が、あらゆる時間を超えて、女将のかたちをした暗い塊に、そそがれ、女将は、7人の狂人から、門の奥にあるものを護ろうとして、途方もなく深く、激しい意志の力で、門の前に、立ちつくしているのだ。そうして、門の奥で、彼女の夫が、寝室の天井の梁に、首を吊っていることに、誰もが、気がつかなかったのだ。


 ヴィオラの音が響いている。茶葉がかすかに揺れ、ふるびた電柱の足元を葬列のような音楽隊が通りかかる。つめたい顔をした男が、紅茶屋たちを納棺する。運送屋の少女だけが、門の外から、それを見つめている。あの朝、女将の顔をのぞきこんだ瞬間、ふいに、女将の溶けかかった瞳が、自分にだけ、ほほえんだように見えたのだ。


 少女は翌日、運送屋のトラックを1台盗みだし、7人の狂人を、次々に殺害した。人々にとって、それは、理解のできない情報だった。その後も少女は、国中で、殺人をつづけた。多くは、狂人であるとされる人々だったが、無論、確証のないものもいた。それはやがて、8人目の狂人として、少女自身が、銃殺されるまでつづいた。死の直前、少女は、1杯のダージリンを、飲ませてほしいと言った。それが、少女の、最後の記録となった。

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