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虐待や不登校や不眠症や薬物依存の子供がプロ占い師の幸せな男になるまでの話(仮)#1

まずどう切り出して良いのか俺は悩む、この話は脚色はあれど全く嘘の無い自分の人生の話で
そして当然まだ完結していない話で、大半は過去の事なのだから、あまりに陰鬱に書くのも良くはないと思う
最初は、物心のついた2歳くらいから書いていこうと思う
もちろん断片的なので次の記憶にすぐ話は飛んでいくし、後で人から聞いた話で過去の自分の状況の後付け説明の柱脚が入ってしまう事を許してほしい。


2歳ごろ最初の記憶は、母方の祖母の経営するアパートの一階で、年子のまだ1歳にもならない弟を守るため赤ん坊用の柵というかケージというか、そういったものを背後にリビングの床に座っている自分の姿だった

次の記憶は同じ年ごろに押し入れに登って飛び降りて、片足の骨を折ったらしく、ギプスをして独りでアイスを舐めながら、親が借りてきたであろう古い仮面ライダーのビデオを観ている自分

そして次の記憶は、どうやらキッチンかダイニングらしき場所のテーブルの横で、床に飲み物をこぼした自分を叱る両親の姿、雑巾を用意され、まだ2歳児だから言葉もよくわからないが「自分でキレイに掃除しろ」と命令されている事は判り
それが腹立たしく、何故俺が命令されなければいけない?という気持ちで、反抗心からその雑巾を足で踏み、それで床を拭こうとした自分の姿だった
そのあと両親二人からの叱責、もしくは体罰の平手打ちか拳か、そのどちらかが飛んできた、そのため記憶は途切れた

次は3歳ごろの記憶、幼稚園の年少クラスで、家は変わっていた

父は広島の老舗のサブコンの次男で、記憶のかぎり最初は部長だったが、祖父から会社を継いで社長になり、俺からすると大伯父にあたる人物が作った2億ほどの借金を数年で完済し、会社を中小企業の中では最大手になるまで立て直した叩き上げの男だった

その父の会社の二階、元は社員用の寮部屋だったであろうものを4部屋ぶち抜いて作られた家に住んで
隣のプレス工場の振動や、一階の工場(こうば)のブルーカラーの社員の怒鳴り声が響く中で俺は育った
いつもうるさかった、夏は暑くて冬は寒く
昼間は食器棚にしまってある皿の類は工場の機械の振動で定期的にカチャカチャと音を立て続けた

通っている幼稚園は会社の目の前で、道路を挟んで5メートルも無い距離にあった
キリスト教系の幼稚園で、昼食の時の「いただきます」の後に「アーメン」と言わなければいけなかった事や
園長先生が十戒のモーセらしき、海を割った男の話を本当にあった事として話していたことなどを覚えている
遊ぶための砂場の上にはブドウが育てられ、鉄棒の近くではザクロが育てられていた

そんな文字通り目と鼻の先にある幼稚園の事が俺は嫌いだった
朝起きる事が辛くて辛くて、面白くなくて、イラつき、毎日のように遅刻したり
ダイニングにある木製の立派な調度の椅子の足にしがみつき「行きたくない」と泣き叫んだが
両親はそんな自分の足を引っ張り、石造りの廊下を引きずって階段を降りさせ幼稚園に通わせていた

幼稚園の年中生になった、よく覚えているのはミサキという同い年の子供が編入してきたことだった
その頃の俺は周囲の子供と同じく日曜の朝にテレビで流れているヒーローが好きで、そして一等好きな遊びは母方の叔父が譲ってくれた古いゲーム数十本と、父親とする「たたかいごっこ」と呼んでいた遊びだった
せいぜいまだ4歳の子供だったからごっこ遊びで済んだが、その遊びは父に向けてパンチやキックを繰り出して、急所だろうが目だろうが関係なく狙って、本気で暴力を振るうという内容だった
そして言葉より振るう事も振るわれる事も多い暴力というものが、自分にとってのコミュニケーションで、感情を表すための方法になっていった

そんな頃、編入してきたミサキと言う男の子は、まあ彼も悲惨な家庭に育っていたんだろう、明るい茶髪に脱色され長い髪をさせられたチャラチャラとした子供だった
そいつが目の前で年下の女の子の指を関節と逆方向に曲げていじめ始めた

俺は暴力しか知らないし、何よりその時点で歪んだ倫理観や正義感があったんだろう、すぐさまミサキを殴りつけた
そしてそれが癖になっていった
ミサキが何か奇行をやらかすたびに殴り、蹴り、追いかけまわして
気づけば自分がイジメっ子へと変わっていた
正直、暴力を振るうのは楽しかった、それはとても楽しかった、人間には嗜虐性があってそれを完全に否定はできないし
なにより子供の時分にはコントロールができなかった
幼稚園生にして口ぐせは「ブチ殺す」だった、することが無いときは園内や公園のアリと暇を同時に潰して遊んだ
そんな生活が小学校の低学年まで続いた。

酷い問題児、それが一番初めに自分に下した自負で、他人から見た客観的評価で、事実で、それも嫌だった
嘘が死ぬほど嫌いなのに、母親は何か家で悪いことが起きれば全て俺のせいにした
実際は弟がやったことでも、何か失せ者があれば俺が盗んだことにされた、信用はゼロだった
嘘をついてばかりの狼少年、悪魔、汚らわしい、「お前の頭からはいつか角が生えてくる」よく母はそう言っていた
家族でテレビで映画を観ていた時、アイアンジャイアントだったか、シリアスで悲しいシーンが流れた折、わざと俺はおどけてみせた
家族に流れた暗い空気を良くしたかっただけだった、が、勿論ヒステリックで感情的な母にはその時の自分の稚拙な表現を空気が読めないと判断したのだろう
「みんなが泣いてるときに、きっとアンタだけ笑っている」そう言われた、酷くひどく、傷ついた
だからこそ、そうなってやろうか?とさえ思った

でも俺は母親が大好きだった、とにかく甘えたいし、ひっついていたい、拒絶されることは怖くて、寂しくて嫌だった
父も怖いながらも好きだった、二段ベットの上段で夜の暗い中、急に不安で怖くなった時は父の寝ている布団に潜り込んだ、なんだかとても安心できた

でも、それだからこそ母は俺に手を焼いて辟易とし、父は酒好きなのも手伝って毎日のように夕食中に壁際に俺を立たせて2時間強の説教
殴る蹴るの体罰もやめなかった

それでも俺は、自分がそんなに寂しく、苦しく、辛い思いをするのは
自分が間違っているからだと、思い続けた。

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