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5軍なりの青春

 一般に青春時代と呼ばれる時代を振り返った時、困ったことに、僕にはこれと言ったいい思い出がない。いや、決して楽しい思い出がなかったというわけではない。僕にだって、人並みに友達と連れ立って帰った寄り道や、大嫌いな体育祭の日にどうやって校舎に引きこもってサボろうとしたかだとか、やたらとカリスマ的な雰囲気を出していた同級生とたまたま友達だっただとか・・・そんな、思い返せば楽しかったな、なんて思える思い出・・・というよりは、こんな経験してるのは我ながら少数派に属する方だろう、と思えるようなレアな経験と言った方が近いかもしれないが、とにかく、そんな思い出くらいだったら、中高6年通して「5軍」として過ごしてきた僕にだって多少は出てくる。ただ、こと「熱さ」ともなってくると、残念なことにこればかりは僕の青春には無縁な形容詞であり、それがなぜかといえば、中高6年のうち、部活動と呼べる活動をしていた期間が最初の2年くらいしかなかったからだ。

 さて、今から書こうと思うのは、そんな万年帰宅部員だった僕の、数少ない部活動の記録・・・というより、正確には、僕本人ではなく僕の友人が属していた部に対する、葛藤らしい葛藤があるわけでもない、ただ、「こんな日々があった」という、ちょっとした思い出である。

 もしも読んでくださったのなら、僕はとても嬉しいです。ちょっとした暇なお時間のお供にしていただけましたら幸いです。


化学部と生物部


 さて、小学校の頃からスポーツというスポーツが大の苦手であり、その上そんな自分の殻を破ろうなどという野心は露ほども持ち合わせていなかった僕は、入学早々すでに運動部への入部を諦めていた。そしてなるべく活動日数の少なそうな部活であり、かつ出来るだけラクそうな部活はどこだろうかと考えた結果、僕は中高一貫校だった広い校舎の高校棟の1階にあった、「生物部」という、いかにも眼鏡をかけた所謂陰キャラなオタク少年の、沼とも魔窟とも呼べるような、男子生徒最底辺が集う掃き溜めの如き部へ入ることに決めた。

 さて、そんな生物部の活動はどのようなものだったのかと言えば、主にやっていたことは校庭の客席(私立校という経済力と、都内でありながら山奥という、土地を使い放題な立地を後ろ盾にしていたその学校は、敷地面積が広いうえに妙に設備が整っており、校舎のトラック周辺にスチール板でできた観客席が設置されていたのだ)の裏の山に作られた小さな畑を耕すことであったり、はたまたその裏山を降りた谷間にある小さな池から捕獲した水棲生物の生態を観察することだったり、はたまた時折学校の裏山に侵入しては捕獲してきた虫を標本にしたりと、今こうして書き出してみるとそれはもはや部活というより、青春という輝かしい一度きりの時間を何の生産もせず浪費し、汗と涙を鼻で笑うようないけ好かないニヒリストが、それでも自分も部活だけはやっているんだぞという虚勢を張るために行う言い訳のような見苦しい活動ばかりなのだが、実際に本当にそのような活動しか僕はしていなかったのだから仕方がない。


 さて、そんな5軍の溜まり場ともいえる生物部だったのだけれど、どういう訳か、こと文化祭ともなると、決まって毎年来場者の人気投票においてはトップクラスの人気だった。というのも、殆どの教室と違って、生物部は目を引く展示物だけは大量に用意できたのだ。普段部室内の棚に鎮座している魚たちの水槽を入り口に設置し、さらに廊下から見える位置に、ブルーシートと砂利と、裏山から拾ってきた大きめの太い木で作られた、金魚たちが泳ぐ即席の小さな細長い池を教室の入り口付近に作ったのだが、それはさながら、理科室という小さな教室に作られた、まさに文化祭という、義務教育課程の少年たちにふさわしい小さな小さなスケールの、水族館や爬虫類館のようであり、それだけで何も知らない来場者の方々、とりわけ親子連れの皆さんにとっては、ふと入ってみようと思わせることが出来るような、そんな外観にすることができたのだ。


 さて、そんな生物部と毎年張り合っていたのが、僕らの部室の2つ隣にあった、もう一つの理科室を根城としていた、化学部だった。


危険分子たちの部活


 私立校だった僕らの高校には、裕福な家庭で育った温室育ちの生徒ばかりだったためか、いかにも怖そうな雰囲気を醸し出していた生徒というのは少なかった。(とはいえ、やはり学校は学校だったので、温厚な生徒が多い一方で、陰湿なイジメも少なからずあったのだが)そして、そのような環境においては、何かしらの問題を起こす生徒というのは、大抵僕らのような5軍のはみ出しもの、キラキラした青春らしい青春を謳歌する物語では、終始一言のセリフもないモブキャラで終わるような、そんな生徒たちの方だった。そして、当時そんなはみ出し者たちの中でもとりわけ居場所のない、友達同士で喋り合う休み時間の教室において、その輪の中から外れることを自らの意志で選択し、そのまま栄光ある孤立という名のマイウェイをただがむしゃらにひた走っていた、見かけは貧弱そうながらその精神は紛うことなき無頼の輩ともいうべき少年たちの混沌とした坩堝と化していた部活こそが、僕たち生物部のライバル、化学部だった。


 僕の友人が語る化学部の活動というのは、破天荒というよりは、むしろマッドサイエンティストといった方が近い連中の活動だった。入部早々点火したガスバーナーの金属部分を素手で掴む訓練をやらされ、活動の耐性を身に付けさせられた彼らは、言うなればとっくに絶滅したはずの日本赤軍の活動方針に図らずも共鳴してしまった化石のような者たちであり、日々命知らずとも呼べるような、今思い返すと相当に危険な活動ばかりをしていた。自家製の爆竹(薬局で調達した心臓病の薬を電気分解させニトログリセリンを抽出するという徹底ぶり!)を校舎内で破裂させ、校庭付近のコンクリートの地面に無数のヒビと焦げ目を作ったかと思えば、ある時は最寄駅のダイソーで購入したフライパンをテルミット実験という名の爆発実験で一瞬で融解させ、またある時は部室の棚にある大量の劇薬を配合させ、化学式が一切不明な暗黒物質を製造したかと思えば、あろうことかそれを密閉した室内で沸騰させ毒性も何も何一つわからない未知のガスを教室中に充満させていたりもした。(友人曰く、仮に核戦争が起こったとした場合、最も生き残る人数の多い部活は間違いなく化学部だと語っていたが、あながち間違いでもなさそうだ。)さらに、部室内のロッカーを開けば、そこには大量の自動小銃のエアガンと、どこで手に入れたのか相当重度な共産主義思想が掲げられた政治新聞の切り抜きで一杯であり、放課後になるや否や、学校の裏山に忍んでは、先述した大量のエアガンに加え、投石、さらには自ら製造した爆発物ありのかなり危険なサバイバルゲームに興じてもいた。なんだかんだで真面目な連帯感を育んでいく運動部とは異なり、愚連隊であることのみを誇りとする連帯感のもと団結していた彼ら化学部は、職員室の壁に貼られていた校則の数々を破ることになど、1 ミリの躊躇いも見せていなかったのだ。

憧れ

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  さて、そんな青春という、おそらくはその渦中に生きている者にとっては最も、どこか輝かしく、そして甘美な響きのするであろうそんな時間を、彼ら化学部は、おそらく当時学校にあったどの部活よりも自由に、そして孤高の精神をもって、それまでギャグ漫画の中でしか聞いたことがないかのような学校生活を本当に生きていた。彼らは決して教室の中心にいるような人気者で構成された部員たちではなかったし、むしろきわめて風変わりな目で見つめられていた。しかし、そんな彼らは、周囲からのそのような視線に何一つ屈しなかった。どころか、周りから堂々浮いた生き方をすることに、どこかはっきりとした誇りを抱いて生きていたように思えた。少なくとも、当時13歳か14歳だった僕の瞳には、彼らの生きざまはそのように映っていた。

 そして、そんな僕の目に彼らは、県大会に出場した陸上部の同学年の生徒や、ギターを片手に制服を着崩し学校という体制に対してささやかな抵抗を試みていた軽音部の部員たちを差し置いて、学校内のどの部活の部員たちよりも格好よく映ったのだ。多分だけれど、おそらく彼らにとっては、自らの行動が破天荒であるだとか、学校に対して反旗を翻しているなどとは微塵も思っていなかったのではないだろうか。彼らの目には、教師や学校や校則などといった障害物など、きっとハナから眼中になど存在せず、その孤高なる勇敢な精神は、ただただ己の思うまま、自由気ままに過ごすことにこそあったのだろう。さながらそれは、高度な文明と市民社会を築いた結果、服従の精神を身に着けてしまった人々の目に映る遊牧騎馬民族のようなものであり、懸賞金目当てに地獄の果てまで追いかけてくる保安官たちなど意に会することなく、茫漠とした荒野を馬とともに駆け巡るワイルドバンチのようで、なんて格好良い生き方だろうかと僕には思えた。


 だが、月日というものは人を変えていくもので、そんな彼らに憧れていた僕だったが、それから1年、2年と経過するうちに、彼らに対する憧れは何処か鳴りを潜めるようになっていき、いつしかそんな憧憬という名の炎を灯していた僕の心の蝋燭も、やがては溶けて消えてしまおうとしていた。 

 そしてまた、彼ら化学部にも、その華麗な群像活劇の終幕が訪れた。


 僕がそんな彼らに憧れを抱いた、そのおよそ4年後くらいだっただろうか。僕らの台が、いよいよ受験勉強に真剣に取り組むようになる時期になった高校2年(だったと思う)のある日だった。相変わらず先述した日常を過ごしていた化学部の彼らは、その日も裏山で自家製の爆竹を破裂させていたが、運の悪いことにその日に限って、数人のけが人を出してしまった(といっても、軽いやけどではあったらしいのだが)。そのことで病院への搬送および警察の事情聴取を受けることになった彼らの行動は、軽い扱いながら、その日の夕方のニュースで日本全国に報道されてしまった上に、運悪く翌日に全校生徒の父兄の参加する集会を控えていたタイミングだったのも相まってついに学校側の逆鱗に触れてしまい、結果、化学部は呆気なく廃部となり、その輝かしいアウトローな活動は終止符を迎えたのだった。あの日のヒーローだった彼らの、その自由な生きざまの果てに散った最期。まるで『その時歴史が動いた』のエンディングを垣間見たかのような彼らのその短い青春の一生を目撃できたこと。それは、5軍の中の5軍のような僕にとっての、どこか誇らしい思い出の一つとして、今も胸に刻まれている。


 そんな日々から10年と少しが経過した。

 生憎その後、同窓会らしい同窓会などは今に至るまで全くと言っていいほど開かれず、その後の化学部の彼らの足取りなど、ある一人を除いて、僕には一切分からない。普通に働いているのか、はたまたそのやんちゃな癖を治す機会を逃し、軽犯罪を繰り返し行っているのか、もしくは僕の知らないところで、思いもよらないほど頼られる立派な人物になっていたりもするかもしれない。

 ただ、たった一人その後を知っている化学部の友人は、僕が中学の2年で同じクラスになってから今に至るまで、ずっと僕の親友でいてくれている。気づけば、僕の人生の半分以上の時間を共に過ごしてくれている。そんな、一生のうちに、そう何人も出会える間柄ではない友達と、今もこうして過ごしていることに、僕は感謝している。


 そんな友達に出会えたことこそが、ひょっとしたら僕の思い出の、最も大きなものなのかもしれない。

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 彼とは、多分、死ぬまで親友でいることと思う。



 長々と、取止めのない文章でしたが、ここまで読んでくださった方々、本当にありがとうございます。もし少しでも楽しんでいてだけましたら、僕としては嬉しい限りです。



 日陰の青春も、悪いものじゃないのだらしい。

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