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灯りに群がる蛾のように、夜の蕎麦屋に僕らは集う

 ふと、仕事帰りに駅前の蕎麦屋に立ち寄った。時刻は夜の10時過ぎで、都心の方ならいざ知らず、僕が降りた駅のような東京郊外の西武線沿線の駅ともなると、駅前ロータリーを見回してみても、煌々と灯りをつけて営業しているのはその蕎麦屋と、そのロータリーをわずかに外れた場所に位置している松屋のみであり、そんな2店舗にはどこか、「今日も疲れたろ、10分くらい休んでいきなよ」なんて言うような、母性と呼ぶにはあまりに乱暴で男性的、友情と呼ぶにもあまりに軽薄で他人行儀、しかし、ふと一声聞くだけで、例えそのまま店を通り過ぎるにしても、「まあ、日常ってこんなもんだよな」とでもいうような、何処か心を一段軽くしてくれるような、そんな佇まいがある。こうしたチェーン店で、こんなに遅い時間まで働いてくれているスタッフの皆様には、僕は感謝してもしきれない。彼らの頑張りで、お店の明かりがついている、開いているというそれだけで、ちょっぴり心が軽くなる瞬間。郊外という空間ならではのこの寂しくも温かな居心地。そんな瞬間だって、世の中にはあるのだ。


 さて、そんな某有名チェーン店の蕎麦屋の店内には、入ってすぐ左手に食券販売機が鎮座し、小さな厨房では2人のスタッフの方が、キビキビと蕎麦の調理と準備に勤しんでいる。大学生時代、どんなバイトにおいても一切の例外なく「キビキビと」なんて動けなかった僕のような人間にとっては、そんなスタッフのお二人の姿はたまらなく格好いい。こんな時間ともなると、およそ20人程度は座れるであろう店内の椅子に座っているのは、いずれも仕事帰りであろうとはっきり分かるサラリーマンと思しき方々ばかりだ。そんな彼らは一様に、つい最近働き始めたような見た目の若いサラリーマンの方ではなかった。きっとこの方は、この年季の入ったスーツと共に、何年間も東京郊外の夜空の下、たった一人の遅い夜にふとこんなチェーン店の蕎麦屋で、食事という名目の下、どこか「疲労」と「孤独」のみを共有する赤の他人同士が、一切の視線も言葉も交わさずとも、その居所を共有することで得られる目に見えない連帯感を味わうこんな時間を、きっと何年も過ごしてきたのに違いない・・・そんなことを感じさせるその背中には、何年間もこの社会の荒波に揉まれ生き残ってきた者の、疲労感を感じさせるが故の底抜けの逞しさが宿っており、そしてそんな夜の蕎麦屋に来店する男たちというのは、決まってそのような、疲労という名の無数の勲章を携えたような方々ばかりなのだった。

 しかし、この「蕎麦屋」という空間、それも夜遅くの蕎麦屋と言う空間が漂わせるこの空気の正体はなんなのであろう。押井守監督(僕の働く世界から見れば、生ける伝説的な巨匠であるのは言うまでもない。)の作品で、しばしば蕎麦屋がモチーフになるのも頷けると言うもの。確かにこの空気感は、蕎麦屋ならではだと僕も思う。おでん屋ではあまりに日常から乖離している景色だし(それだけおでん屋さんがコンビニに淘汰されてしまった為なのだろうか。)、居酒屋ではちょっと活気に溢れすぎている。ラーメン屋さんでは、ちょっと肩の力が入りすぎるというか、割と「美味しさ」自体を追求しに入店している感があってどうも違う。しかし、安ければいいのかというとそうでもなくて、蕎麦屋と同じくらい庶民の味方な牛丼屋さんでは、まだちょっとシステマティック的というか、かなり惜しいところまで来ているのだけれど、まだちょっと蕎麦屋程には内面を晒せない。あと、コンビニはそもそも座れない。そうしてあらゆる飲食店を候補に入れて選抜して行った結果、どういう訳か、蕎麦屋という、実に庶民的というほかない値段と味を提供する空間のみが、疲労と倦怠としか表現しきれないこの心の居所を作ってくれる、謎の充足感を醸し出してくれるような、そんな気がするのだ。こんな蕎麦屋という空間に、一体日本中のどれだけの働く人々が救われていることだろう。僕はそんな蕎麦屋と、そこで働く人々に、感謝しても仕切れない。

 
本当に、ありがとうございます。そして、お疲れ様です、と。


 ちなみに僕は、いまだに蕎麦についてくる温泉卵の使い方が分からない。割って入れるのはいつのタイミングがいいのか。半熟の白身を箸で割って黄身をスープに混ぜるのはいつがいいのか。汁を吸ってふにゃふにゃになったかき揚げと、少しだけ残った蕎麦と、温泉卵をグズグズにスープに混ぜて流し込むような、無計画の果てに行き着いたような実に品性に欠ける僕の食べ方が果たして正しいのか・・・・いやそもそも丼に温泉卵を入れるのがそもそも正解なのか・・・もっと美味しい食べ方があるんではないか・・・いまだに答えは見つからない。



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 ここまで読んで下さった皆様、本当にありがとうございます。ちょっとした暇潰しにでもなれましたら、僕はとても嬉しいです。

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