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思考→言語化のタイムラグ

「なんだかな~」と思うことがあると、言語化したくなる。このもやもやを言葉にすれば、整理されて本質がつかめる、何をすべきかが見えてくる、そんな気がする。

私の言語化の方法は、散歩しながらの独り言、であることが多い。本音の自分、客観的な自分、自分に共感する自分、一人で何役もしながら会話形式で独り言を言う。もやもやがまだ大きければ遠回り、少し道筋が見えてきたら家の方角に曲がる。こうやって1時間ほど散歩して、帰るころには「明日からこうしてみよう」とポジティブな気持ちが芽生えている。

独り言という方法は、【思考→言語化】をする上では、圧倒的なタイムラグのなさが強みだ。一方で、記録性に欠けることが弱みと言える。たまに、このプロセスを書き記しておきたい、と日記を書くことがあるが、まったく同じプロセスを辿ることは難しい。

noteは、私の中で新しく言語化する方法の一つになった。記録され、いつでも読み返すことができる気軽さも良い。また、自分で書かなくても、他の方々が使う言葉の中で代弁されていて、読むだけですっきりすることもある。

ただ、独り言とは真逆で、言語化するまでにタイムラグができてしまうのが私の中でもどかしく感じるところだ。

どれだけタイピングが速くても、思考するスピードの方が絶対速い。キーボードを叩いているうちに、先につながる言葉に意識が向かって、それはどんどん形を変えていってしまう。巡り巡る思考のすべてに文字が追い付くことはできない。言語化されない思考が必ず発生する。

それに、思考が先を行き過ぎて、真ん中が抜け落ちてしまうこともある。そうすると記事としては未完成ということになり、戻って真ん中を書く、というよく分からない手順を踏むことになる。

日記と違って世の中に開示されているという側面はあるが、プロでもない私が完璧な文章を書く必要なんてない。それでも、一つの記事をきれいに仕上げたい、という心理が働いているのだろう。noteでの言語化は、「書き上げた!」という満足感と同時に、「本当に書きたいことが書けたのか」という疑問もやや残る。

昨日、もやもやすることがあった。それをnoteに書こうと思った。心に余裕があるときならもやもやするようなことでもない、というようなことなのに、もやもやが消えない。そんな私の今の心の状態を文章にしておきたかった。

でも、いざ書こうとすると考えが溢れかえってきて、汚い感情を拾い損ねるのではないか、美化して書いてしまうのではないか、と不安になった。私はまだ、他者から見られる自分を気にしているから。

散歩しながらの独り言、日記、note。すみわけはまだできていないけれど、全部大事にしたい。これから少しずつ、自分の生活に馴染ませていこう。

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