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傾向と対策で乗り越えられないレベルのアイツ

人には変えたくても変えられないものがあります。
過去の出来事とか。自分の嫌いなところとか。

いやいや、過去は変えられないけど、人は努力次第で変われるよ。という考え方もあって、それができればいいのだけれど。
なかなか変われなくて困ってるんだよねぇ、という恨み節がついつい口をつく。自分でもうんざり。

こうなったら困りごとも恨みつらみも味方につけて生きていこう。
覚悟を決め、自分の感じている困難さと向き合ってみました。

第1節:子供時代の脱糞経験から考えたこと

困っている中身は人によりいろいろです。

私の場合は、お腹の弱さ、運動神経の悪さ、身体のコンプレックス、人間関係のつまづき、共感力の弱さ、記憶障害、親性のなさ、本能のような悪意……。

言葉にして並べてみたのは初めてです。

まだ混乱してこんがらがっている状態なので、一つひとつ、ほぐしていきたい。わかりやすいところから足がかりにしてみます。

たとえば、まちなかで脱糞した経験がある人って、世の中にどれくらいの割合でいるのでしょうね?
私は子供の頃に3回。記憶から抹殺したものを含めると、もう少しあるのではないかと。過去をやり直せたとしても結果はたぶん同じだろう。そんな確信があります。

当時を振り返って思い出されるのは、涙ごしに眼球が見た長い坂道。太陽の眩しさ、罪な明るさ。自分を奮い起こすけれど、遠くで耳鳴りがして目がかすむ。

恥ずかしい経験をとおして、恥にまみれた心をニュートラルにする技術だけは鍛えられていきました。
考えてみれば、身体と心を切り離して楽になるというテクニックはかなり便利で、ほかの場面でもよく使いました。

学校で忘れ物をしたとき、体育でいつもビリだったとき、仲間はずれにされたとき、友人から非難されたとき、仕事の納期が遅れたとき……。数えるとキリがない。

でもそうやって、行動と心を結び付けないようにしてきた習慣が、ライターやインタビュアーの仕事ではめちゃめちゃマイナスに働いていると感じています。

大人になるだけで解決する困難もある

さきほど並べた困りごとのなかには、大人になって解決したものも2つあります。

まずお腹の弱さ。学校という集団生活から解放されたら、脱糞リスクは格段に減りました。食べ物をいつどこでどのくらい摂取するかも、トイレに行く回数やタイミングも選べるから。
山登りや海やキャンプなどの行事を断るのも自由だし、薬局で好きなものを買える。つまり、困難をコントロールできるようになったのです。

もう一つは身体のコンプレックス。
私はある箇所を多くの人と同じような形にしたくて、病院で手術を受けました。未成年だったので「親の承諾書がもらえないなら、現金一括払いになる」と言われ、迷わず現金一括を選びました。

ただ結構な金額を支払ったのに、結局、治らなかったんです。
治らないというか、元どおりになった。
施術方法にもよるのでしょうが、しばらくすると前の姿に戻ってしまいました。

がっかりしましたけど。「人間の体ってすごいなぁ」と感心して、「体が元に戻りたかったんだからしょうがない。事実を尊重しよう」と理屈抜きにふっきることができました。

幼馴染がわからない

一方で、大人になってから困難さが増したものがあります。人間関係のつまづき、共感力の弱さ、記憶障害、親性のなさ、本能のような悪意……。

脳の構造なのか、心の思いグセなのか、変えたくても変えられないという感じです。どう対処したらいいのか迷っている段階です。

たとえば記憶力。これは高校の学年同窓会に参加したときのことです。
小・中・高と同じ学校に通い、小さい頃よく一緒に遊んだ幼馴染から声をかけられたのに、誰だかさっぱりわからない。結局、周りの人に名前を教えてもらいました。

名前がわかっても、少ししか思い出せない。
心のなかにその人はいない。いたという実感がない。
その人はすべてを知っていると考えると、急に背筋が寒くなる。

似た現象は以前からあったので「なんでかな?」 と誰かに話すと、だいたいの人が「他人に興味がないんだよ。」と応えます。
「人の顔を忘れる=その人に興味がない」という仮説にさらされるうちに、「つまり性格が悪いから顔を忘れるんだな」「覚える努力や誠実さが足りないんだな」という曲解が自分の定説となっていきました。

でも、曲解しないほうがよかったのに。
なんで、しっくりくる答えを探そうとしなかったんだろう。
なんであのとき、あのときも、立ち止まって考えずに、ここまで来ちゃったんだろう。

困難さの原因がわからない

もろもろの困難さは、一体どこからやってくるのだろう? 原因はどこにあるのだろう? 遺伝? 環境? 努力の大小?

ライターの仕事を始めるまでは、原因を知りたいとは思わなかったのに。
ずっと心をニュートラルにして、違和感に蓋をして、ほとんど考えず、工夫もしてこなかった。大雨が来たら止むまで待ち、止んだらまた歩き出す、その繰り返しでした。

でも、書くために自分と向き合うと決めたら、変わりたくなった。
変わるために困難さの原因を知りたくなった。
何かを変えないと、このまま何も書けない気がするのです。

すると今度は「もしや私って病気? それともグレーゾーン?」という疑念が湧いてきました。

受診は必要? カテゴライズされる違和感

これまで、原因がわからないモヤモヤが嫌で、もう誰かに “あなたは〇〇ですね” と病名を告げて欲しいと願ったことは何度もあります。でも結局、受診せず。病院に行っても何も変わらないだろうという気持ちも強く、まずは可能な限り、自分と向き合いたいと思いました。

そう思えたのは、ある意味この本『発達障害と言いたがる人たち(香山リカ 著)』のおかげです。まだ手に取ることも読むこともできていない本(たぶんこれからも無理)だけど、タイトルだけは図星で、香山さんにカテゴライズされそうになったとたんに反発心が芽生えました。

何かが違う。 “〇〇グレーゾーン” という言葉に自分を当てはめるのはなんか違う。

そもそも、困難さの原因を知りたいと思ったのはなぜだっけ?
私の場合は、書けるようになりたいから。
それを一番よくわかっているのは自分なのだから。今度こそモヤモヤをスルーせず、違和感にちゃんと耳を貸さなきゃ。一番しっくりくる言葉を、自分の手で探さなきゃ。

独学で調べると「うーん、ちょっと違うなぁ」と感じることも多々あるけど、しっくりくる言葉に出会うまで、腑に落ちるまで、ふんばる。そうやって言葉で自分を理解しながら、性質や体質を少しずつ受け入れていく作業をやってみてよかった、と思うのです。

そのうち、むしろ困難さの原因は特定しないほうが、心の自由度は高まるかもしれないと考えるようになりました。

生まれつきの困難さは、簡単には変えられません。
私のように、軽度な症状をいくつか自覚していて苦しいけれども社会生活ができている人は、原因がわからず対策しづらいのも辛いのではないでしょうか。

そんなときこそ、何かを言われたり、何かを目にしたりして、違和感を覚えたなら、見て見ぬ振りをしないで欲しい。妥協することなく違和感をかかえてみて欲しい。
そうやって身体と心と向き合う作業を避けてきたせいで、私の困難さは増えていったのかもしれないと思います。

第2節:頭にねこのいるイラストを描く理由

ここからは、頭にねこのいるイラスト(catinthehead)を描く理由について書きます。

私は自分と向き合ううちに、正体がよくわからない困難さに、しっくりくる名前をつけることを思いつきました。

長い人生をともにするのだから、擬人化してみよう。たとえばそうだな。「傾向と対策で乗り超えられないレベルのアイツ」って呼んでみたらどうかなと。

するとなんだか気持ちが軽くなり、うちの黒猫が頭に浮かんだんです。

なんの報復、これ?

家族になった2018年1月時点で、あいつは13歳か14歳でした。
どんな猫生を送ってきたらこうなるの? と首をひねるほどワイルドな家猫で、はっきり言ってかわいくなかった(注:私はもともと猫好きですがそれでも)。

お互いにほぼ他人他猫の状態で同居がはじまったので、生活テリトリー・食事・トイレ・睡眠などの基本的なライフスタイルがまったく噛み合わず、双方のストレスは相当なものでした。

毎日のようにトイレ以外の場所でおしっこをされたり、大がトイレからはみ出ていたり。あいつは今すぐ掃除しやがれとばかりに、深夜でもかまわず大音量で泣き叫ぶ。夜泣きがすごい。

ストレスのせいか、体臭もワイルディ。
やっと撫でさせてくれたと思ったら、手の平を返してシャシャシャー!!と威嚇してくる。

「えっ、なになに?」
「なんの報復、これ?」
「私が一体、何したっていうのよ?」
「どうして、思うようにならないの?」

1年くらいそんな感じでしたが、時が解決してくれたのか、近頃はまぁまぁ仲良くできるようになってきました。とはいえ、まぁまぁ止まりです。

あれ? 

うちの黒猫と、「傾向と対策で乗り超えられないレベルのアイツ」っていろいろ似ている?
ワザとではなく、報復でもなく、本意じゃないのに人を困らせてしまう部分を持っているのかも……。そして手なづけるには手ごわすぎる。

私の頭のなかには、猫みたいなアイツがいる

「私の頭のなかには、猫みたいなアイツがいるんだ」
目をつぶり、その存在をゆっくり感じとったら、体や脳のダメなところも、少し許せるような気がしてきました。

困難の正体はわからずじまいだけど、「困難さの認識→擬人化→擬猫化」をしたら、ダメ人間、大嫌い、死ねばいい、などと暴言を吐くのもよそうと思えるようになったんです。
猫にそんなひどいことは言えませんから。

失敗をしたときも「フッ、頭のなかの猫があばれてやがるぜ」と可笑しみさえ覚えるようになりました。長年のコンプレックスに名前をつけ、少し客観視できるようになったからだと思います。

catintheheadという頭に猫がいるイラストを描き始めた日を境に、自分を受け入れる一歩目が踏み出せたような気がしています。

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前回のnoteはこちら。初めてのnoteです。

note「たとえ悪意がなかったとしても」では、本能のような悪意について書きました。こちらも読んでいただけたらとても嬉しいです。


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