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【読書感想】ポラリスが降り注ぐ夜

一年ほど前の話になるが、李琴峰著の『ポラリスが降り注ぐ夜』を初めて読んで、これは色んな意味で面白く興味深い小説だと私は思わず唸った。今回はその『ポラリスが降り注ぐ夜』について書いてみようと思う。

この本は、新宿二丁目に店を構える女性のためのバー「ポラリス」を軸に、多様な性と生を描いた短編集。ここにおさめられている七つの物語は、さながら北極星を中心に天空を回る北斗七星のようである。(この北極星と七つ星の間柄に関しても、面白いと感じた点があるので後述したい。)

ひとつめの物語「日暮れ」で登場する、ゆーときえという二人の女性に私は猛烈な嫌悪感を抱いた。読んでいる間中、数えきれないほど苛立ちを覚えて「は?」「いやマジ何なの、コイツ」といちいち引っ掛かっていた。このイライラポイントの匙加減が本当に絶妙で、ある意味アッパレなのだが、最後までこの感じが続くとしんどいな…と私は不安に思い始めた。しかし、それは杞憂に終わった。物語から物語へと渡り歩くたびに世界の深さと広がりは増していく一方で、終着点まで夢中で読み進めることになった。

以下、『ポラリスが降り注ぐ夜』で個人的に印象に残った点を挙げていく。この小説は何度も読み返したお気に入りの本だが、思ったことをそのまま書き残しているので人によっては辛口に感じられる箇所もあるかもしれない。絶賛記事ではないので、そのことを予めご理解の上、お読みいただければと思います。

◆多種多様な性の在り方/考え方

「LGBT」「セクマイ」という枠で一括りにまとめられてしまうけれど、その中身は多種多様だ。そしてその少数者達の間でさえ自分と異なる分類の者への差別や無理解・不寛容が存在する。そのことを丁寧に、そして美しく、でも変な飾りつけをせず実直に描いている小説がこの『ポラリスが降り注ぐ夜』だと感じた。レズビアン、バイセクシュアル、トランスジェンダー、パンセクシュアル、Aセクシュアル…そのようなラベリングの下で生きる、多彩で切実なそれぞれの人生。

この「ラベル」というものに対しての考えが登場人物によって大きく差があるところに好感を抱いた。性別や性指向の明確さや完全性を拠り所にする人もいれば、その枠に自分を押し込まないことを大事にする人もいる。アイデンティティにまつわる問題なので場合によっては両者は根本的に相容れないものになり、そこで衝突が起こることもある。こういう意味でもセクシュアルマイノリティは一枚岩ではない。そのことをきちんと物語の中で描き切っていた。

「何でも名前をつけて、カテゴライズする必要はないんじゃないかな」と反論した。すると利穂は「カテゴライズされることで自分自身の存在に対する安心感が得られるのなら、してもいいんじゃないかな?だって、言葉がないのはあまりにも心細いんだもの」と静かに言った。「同性愛者に両性愛者、そしてトランスジェンダー。先人は大変な苦労をしてやっと自分に名前をつけることに成功した。名前というのは、自分は一人じゃないってことの証拠なの。そして名前がないのは、生まれていない、存在しないも同然よ」(「蝶々や鳥になれるわけでも」より抜粋)
「お姉さんは、この中のどれですか?」と、男は「性の在り方」のページを指で示しながら、そう訊いた。香凜は少しばかり迷ったが、ややあってゆっくりと首を振った。「分からないし、決めたくもないんです」と香凜が言った。「決めたくないって、クェスチョニングということですか?」と男が訊いた。「そうじゃないんです」と香凜が言った。「敢えて言葉で自分を定義する必要を感じません。昔は男と付き合っていたし、今は女と付き合っているけれど、自分をバイセクシュアルだとは思っていません。かといって完全なレズビアンでもない気がします。どの言葉を使っても、自分自身を部分的に削り取ってしまうような気がするんです」(「深い縦穴」より抜粋)

お話の一つに、Aセクシュアルを主人公に据えた物語があった。エピソードはかなりリアルだしお話そのものも面白かったけれど、だからこそ読んでいてAセクシュアルとAロマンティックを混同していると見受けられたことが残念に感じてしまった。個人的には、ここでは主人公と友人を「Aロマンティック Aセクシュアル」「バイロマンティック Aセクシュアル」とそれぞれ表して欲しかったと思ってしまう。恐らく著者ご本人はその二つの違いを理解していらっしゃるのだろうけど、その辺に明るくないであろう大半の読者に適切でない知識を与えてしまう描かれ方だったと思う。何というか…率直に言うと、丁寧に描いているようでARO/ACEそのものに関する肝心な部分は雑に描かれてしまったなと感じた。セクシュアルマイノリティを主軸に置いて描いている作品だからこそ、これはより一層割り切れない点だった。

この点について、私がどの箇所に引っ掛かり、モヤモヤし、どこまで求めて良いのか頭を悩ませたかを全て先に書いて下さった方がいらっしゃったので以下に記事を貼っておきます。こちらの記事の「・Aロマンティックの不可視化」「・物語にどこまでを求めていいのか」の項目にご注目下さい。

◆日本人・台湾人・中国人

セクシュアルマイノリティを描いた面が大きく取り上げられやすいけれど、忘れてはならないのは日本人・台湾人・中国人という国籍も政治的・文化的背景の異なる人々が主人公や主要人物として描かれている点だ。

好む好まざるとに関わらず、人は生まれ育った国の政治や文化・歴史に大きく影響を受け、それが個人を構成する大きな要素となるのは言うまでもない。この小説では、そのことを文学的かつ非常に個人的な文脈で再認識することになる。実際に台湾人の恰君と文馨は「ひまわり学生運動」、中国人の楊欣は「天安門事件」が人生に影を落としていて、これらを抜きに彼女達の人生は語れない。(ちなみに「ひまわり学生運動」については、自身がそこにいる錯覚を起こしそうなほど臨場感に溢れる筆致だった。)

さらに言えば、同じ中国人であっても南京の裕福な家庭に育った東京の大学生の蘇雪と、陝西省の農村部出身で親族の期待を一身に背負いながら北京で「蟻族」として生き抜き借金してまで東京へ渡ってきた士豪、中学卒業後に進学せず自動車修理工場に弟子入りしながら父親の露店を手伝う阿輝では、常識・教養・価値観…あらゆるものが違う。(※蟻族=中国で社会現象となっている、都市部の劣悪な環境で生活する高学歴なのに低所得な大卒者集団。)その相容れなさ・隔絶感というものは凄まじいものがある。物語の前面に出すわけではないのに、中国のリアルな一つの側面を映し描いていて、思わず声が漏れそうになった。

どの視点で切り取るかで社会的弱者も変わる。ある面に置いて社会的弱者でも、ある面から見ると社会的強者になる。その逆も然り。そして本人はそれぞれ自分の悲劇性の部分にフォーカスしてしまうので、互いのやり取りを見ていて何とも言えない気持ちになる。それは良い悪いの話ではないし、個人個人の持つ弱者の要素を矮小化をして良い理由にもならない。(というよりむしろ、かなり慎重にならなくてはならないところだ。)ただ、別の視点から見えているであろう現実をまざまざと見させられて、何ともやるせない気持ちになってしまった。

◆細やかな演出をする字体

もう一つ、恋人同士である日本人の香凜と中国人の楊欣の間に感じた隔たりについても書いておきたい。この二人の物語が綴られているのは五つ目の「深い縦穴」という物語で、語り手は香凜だ。この話を読み進める中で楊欣の人となりや踏み込んだ過去を知ることになる。ところが読み終わった瞬間、何か釈然としない感覚が残った。まさかと思って読み返すと、このお話の中では簡体字が一切使われていないのだ。

前述のとおりこの小説には中国人と台湾人が登場する。その都度、中国人の場合は簡体字(简体字)、台湾人の場合は繁体字(繁體字)が物語の随所に織り込まれていた。ところが楊欣を語るのに、全て日本語である新字体の漢字が使われているというのだ。楊欣が体験した中国での中国語でのやり取りも、新字体。この事実に私はしばし愕然としてしまった。香凜の語る、新字体というフィルターのみで描かれた楊欣を見ていると、どんなに近づこうとしても楊欣の大事な芯の部分に肉薄することが出来ないように「見えてしまう」のだ。何とも細やかな言語表現による溝の演出…。

もちろん、自分を育んだ土台となる言語の違いそのものが絶対的な障壁となるのではない。むしろ同じ言語を使う者同士だからこそ感じる絶望的な遠さもあり、それは彼女の別著『星月夜』でも表現されている。ただ、こういった表現の使いどころが絶妙で、潜在的な物語の演出の一部としているであろう点に李琴峰さんのセンスを感じる。

◆北極星と北斗七星

冒頭で述べたように、これは新宿二丁目に店を構える女性のためのバー「ポラリス」を軸にした短編集のため、このお店は大事な役割を担う場となっている。そのポラリスの看板についての描写を読んで、私は「おや」と思った。

店先に置き去りにされたゆーは頭を上げると、北斗七星が描かれる看板には店名「ポラリス」の文字が書いてあった。(「日暮れ」より抜粋)

お分かりいただけるだろうか?ポラリスは北極星である。にも関わらず、看板に描かれているのは北斗七星なのだ。ずっと先まで読み進めていくと、店主の夏子がポラリスをオープンした時の話が出てくる。

半年後、夏子は<ポラリス>をオープンした。(中略)彷徨うアヒルの子達の北極星になれれば、と思ったのだ。(「夏の白鳥」より抜粋)

ポラリスとは夏子のことだ。北星夏子の「北星」を英語に直訳するとnorth starとなる。そして英語で北極星のことをthe North Starという。そう、ポラリス(Polaris)なのだ。

もう一度看板に話を戻そう。ポラリスと名を冠しているのに、ポラリスは描かれない。看板に描かれているのは北斗七星のみ。この奇妙さに違和感を抱かないのは、東アジア人の感性ではないだろうか?

道教に由来する古代中国の思想では、北天の星辰(北辰)は天帝(天皇大帝)、宇宙の中心と考えられていた。のちに、これに北斗七星を神格化した北斗信仰とが習合し、さらに星を仏教における妙見菩薩に見立てた妙見信仰が生まれた。中国の思想に影響を受けた文化で北極星と北斗七星が混同されがち、あるいはセットで考えられがちな要因は、ここにある。

ポラリスと書いてあるのに違う星座が描かれているのを他の文化圏の人が見たら、個人差はあるが少し奇妙な感じがするのではないかと思う。たとえば英語では、スペンサーやシェイクスピアらが北極星を「不動」あるいは「​指針」といった意味合いの比喩表現として用いてきた。なので、北極星そのものを描かないと何となく落ち着きどころが悪いだろう。(その場合、以下のようなものが受け入れやすい形になるのではないだろうか。)そもそも北極星は北極星だし、北斗七星は北斗七星だ。

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そう考えると、北極星と北斗七星の結びつきが強い「ポラリス」の看板は大変東洋的なデザインに感じられる。事実、ここに登場する女性たちは東アジア人なのだ。異文化として描かれているけれど、大きな枠に組み直すと全員が東アジア文化圏という括りになる。その辺りに私は味わい深さを感じてしまった。

しかも、オーストラリアで育った雪奈は作中でポラリスに現れなかった。オーストラリアで夏子と出逢って特別な時間を過ごしたけれど、東京でポラリスに辿り着くことはなかったのだ。その点についても、何だかちょっと感じるものがあった。

◆物語を渡り歩いた終着点

最後に二丁目を含む新宿の歴史について物語の中で取り上げられていたのが、またとても良かった。こういう大きな時の流れの中で現在地を見ることを促してくれることで、北極星(ポラリス)と七つ星の世界から今ここにある自分という人間に再着地したような心地を抱く。

あとがきにある李琴峰さんの「ただどうか忘れないでおいてください――あらゆる歴史は現代史であり、あらゆる理解は誤解であるということを。」という言葉がずっしりと響いた読後だった。

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