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#4-2 ディスカッション構造への問いとリフレクションの変容 【MAWARUリフレクション:千々布先生#2】

みなさんこんにちは。MAWARUリフレクション事務局です。
今回は、1月21日(土)に開催した、「リフレクションを対話的に再構成する~研究者と実践者でリフレクションを紡ぎなおす~」シリーズの第4回目イベントの様子を、引き続きお伝えします。

PartⅡからPartⅣは、事前読書会で出た話題をテーマにした、千々布先生と参加者のディスカッションの様子をお届けしていきます。この記事はPartⅡになります。なお、本シリーズはPodcastでも配信しています。

ディスカッションの構造:「質問に答える」では技術的リフレクションに留まる

山下:千々布先生ありがとうございます。今の話の中からも、本当に種がいっぱいあるかと思うのですけれども、事前読書会の中から出てきた疑問を今から示させていただければなと思います。(スライドを3枚提示)

スライド1
スライド2
スライド3

千々布:事前に打ち合わせたように、三つの質問を全部まとめて言ってください。

山下:はい。一つ目は、コルトハーヘンは、技術的実践的批判的リフレクションというステップというよりも、経験学習モデルというサイクルの視点でリフレクションを見ていると解釈していますが、リフレクションをどのように捉えていったらいいのかという皆さんの疑問です。また実際に、例えば技術的リフレクションに留まっている人に実践的リフレクションや批判的リフレクションを教えたとしても、対処療法から出ない気がするという参加者の意見がありました。このあたりを千々布先生がどのように捉えていらっしゃるかをお話いただければと思います。二つ目は、千々布先生は信念をどのように捉えられているか、コルトハーヘンの信念とはどのように違うのか、という意見がございました。そこをまず前提としてお話いただけないかなと。その後、信念を扱う段階はどのような段階なのか。技術的リフレクションの段階では、信念は隠れているだけで、みんな持っているものではないかと思いますが、技術的リフレクションの段階の人は、そこに気づかないのではないか、あるいは信念が強固になりすぎてしまうこともあるのではないかという意見がありました。そして、学校の文化としてリフレクションを行っていく時に、色々な背景があるので、どうお互いの信念を知り、すり合わせていけばいいのか。個性として認めるところは尊重しながらも、どんなふうに信念を扱っていけばいいのかなというところが、今の課題感としてすごくあるという方が多く参加されてらっしゃいました。この信念についてということが二つ目です。最後は、教員は1人でリフレクションするだけでは変わらないよねと、先ほどの千々布先生のお話にもありましたが、集団としてリフレクションをする文化が必要だと。そのところで、リフレクションの勘所、質を高めるものって何があるのか、何が出来るのだろうかというところで悶々とするところがありました。先生の著書の中では、授業論の中で「石井教授の五つのツボ」について書いていただいていましたが、教員集団の勘所を高める質、ツボみたいなものもあるのではないかな、というのが参加者の皆さんから出てきた質問です。

千々布:山下さんに確認したいのだけどね、この質問に私が答えたら、皆さんは何が得られるのですか。

山下:そうですね、先ほどの千々布先生のお話で言うと、技術的リフレクションになるということですよね。

千々布:ここで三つの質問に対して私が答えますよ。それを「ありがとうございます」と言ってからメモするのだったら、技術的リフレクションに留まったままなのですよ。皆さんにこの勉強会を一体始めてどれくらいなのかという風に聞いたのはね、リフレクションをどういう風に考えてきたのかなというのが、ちょっと疑問に思ってしまって。町支さん(※第4回イベントにご登壇)はね、ALACTモデルをかなり理解しているのだけれども、あの本に書かれているリフレクションのやり方というのは、結構技術的な、マニュアル的なものが強いわけです。本人がね、実際にコーチングやる時には、かなり相手に考えさせるようなコーチングやっているのだけれども、本に著そうとすると、技術的な書き方になりますよね。私はね、もうそういうのは極力避けたいなと思って、どういう提示の仕方がいいかなと考えてから、リフレクション3段階論で言ったのだけれども、「リフレクション3段階論が大事ですね」って言ったらさ、そうしたらね、「どうやったら批判的リフレクションまで到達することができるでしょうか」って質問が来ているわけよ。皆さんがね、技術的リフレクションのレベルで留まっているわけ。

実践的リフレクション:「問い」に対して自分に引き寄せた具体的な文脈を語る

千々布:だからもう私はね、この質問のスライドを見た時からね、「逆にあなたたちはどう考えているの?」と。私の考えなら、それはありますよ。私の考えは私の考えがあるのだけれども、それを私が言って、あなたたちがメモしたらね、それはね、批判的リフレクションまで高まらないのですよ。だからこの質問を受けたらね、まずはあなたたちどう考えているのっていうことについて答えてくれると、少なくともその段階で実践的リフレクションになるのですよ。それぞれ自分が活動している文脈があるのですよね、学校の文脈とかね。その文脈の中で、「信念の対立で迷うところがありました」とかね。「コルトハーヘン的な往還をさせようとして、なかなか往還に行かないことがありました」とかね。具体的な文脈があるわけですよ。それを自分に引き寄せて、リフレクションをどうやったらいいかとか、あるいは集団をどうやったらいいかとかね、信念の対立をどう克服したらいいかとか、「自分がどう考えるか」ということを聞きたいわけですよ。はい。逆に私の方から質問がされました。12人の中で、まずは誰が答えてくれますか。

B:(即座に)はい。

山下:じゃ、B先生お願いします。

リフレクションの捉え方:直線的/円環的な捉え方の違い

B:これまず、先生のおっしゃっている技術的リフレクションの捉え方で、僕これ読んだときに、もしかしたら読者が誤解を招くなと思ったのが、垂直的に技術的→実践的→批判的に上がっていくのではなく、行ったり来たりしていきながら上がっていくものだと、円環になってぐるぐる回りながら上がっていくもので、直線的に上がるものではないということの捉え方をしないといけないと思ったのですよ。直線的に上がるというのは、セルフselfの強さ、要は「自分とはどんなものか、どんな教師か、どんな教育哲学を持っているか」といったことと強く関係性があると僕は解釈しています。自分というものを構築していくのはまっすぐ行かず、揺らぎながら上がっていく、組織として揺らぎながら上がっていくのだということを前提に捉えないと、いつまでも技術的に留まると思っています。そうなった時に、この3段階を上がっていくためには教師自身の「セルフ」、これは研究者によっては「ビリーフBelief」という人もいるだろうし、そこをきちんと作っていくことを、反対側で教師研究としてやっていかないとならない。リフレクションだけで解決しようとすると、垂直的に上がるモデルをイメージしてしまうので、うちの学校では必ず反対側に、教師のセルフに気付かせる。要は自分の、「どういう教育を受けてきた」とか、「どんな環境で育ってきた」とか、そういうものの気づきを、初任者も含めて教職員と研修して、学校作りを始めていっているというのがうちの学校のやり方です。

千々布:いや嬉しいですね。そうそう、B先生の今の読み方、考え方からすると、端的にね、私の本の書き方がまだ直線的に読めますと。

B:もうそれだけじゃ言いにくいのですが、そうなのですよ。

千々布:そうそう、そういう風に批判してもらうと、私もありがたいわけですよ。私もそういう風に批判されると、確かにそうだよなと。もう少し段階的に上がっていった方がいいのだろうなと。だからそれはね、コルトハーヘンモデルだとぐるぐる回るでしょ。今の話を聞くとね、今度は渦巻き状で少しずつ上がっていくのだろうなというようなイメージが出てきますよ。うん、ありがとう、ありがたいですね。

エージェンシーの訳語:「選択」が内包する問題/新たな提案「問題解決」

B:あともう一つ、先ほど話した中で、日本の教育コンテキストcontext(文脈)のせいだけれど、日本の教師がセルフというものが構築できる機会がかなり少ない。僕は、セルフ=選択権だと思っています。僕は学校教育の専門で色々勉強してきた中で言うと、エージェンシーagencyというのは「主体的選択能力」という訳がつけられたりしているのですよ。要は自分で選択できる。その機会が、あまりにもこれまでの育ってきた教育で少なかった日本の中で、セルフを持つということが、やはり諸外国と比べて弱いであろうと。セルフというものに気づいて、それをディフェンスdefense、強化するような環境を作っていかないと、なかなか教師のセルフが育まれないなというのが、学校現場に帰ってきた時の一番の気づきでした。

千々布:エージェンシー論はまだ日本語であんまり語られていなくって。選択という言葉は英語を日本語に訳したのですか。

B:いや、これ英語の中の定義の中で、ちょっと誰のということは今ぱっと思い出せないのですけれども。

千々布:選択という言葉が、英語ではどう表現されていたかを聞きたいのですよ。

B:うーん…ごめんなさい、単語としてぱっと出てこないですね。僕が読んでいる中の解釈で、何と言うか、自分の決定のもとにおいて何かを選ぶというコンテキストが書かれていたのですよね。英語で。

千々布:だからその選ぶというのが、日本語で「選ぶ」だとね、選択肢が最初からABCとか、選択肢を選ぶということがイメージになるでしょう。

B:そうそうそう。はい。

千々布:それってね、エージェンシーとしてはね、そんな「選ばされている」という段階でもう構造の枠の中に入っているのですよ。

B:あくまで日本語で解釈している、私の中での英語でも、解釈で日本語に置き換えている部分が、そのまま今出てきてしまっていますけれども。

千々布:それはね、もう少しね、読み直した方がいいと思いますね。

B:おっしゃる通りですね。

千々布:ええ。だからね、エージェンシーを表現する時に、日本語の「選択」という言葉はよくない。むしろ「問題解決」とかね。

エージェンシー論:「構造」を読み解き、変えることを目指す

千々布:あのね、「構造」という日本語をよく使われるのですよ。社会学における「構造」という言葉はね、「文化」という意味が入ってくるのですよ。制度もある。文化もある。無意識の世界の考え方というのもある。全て「構造」なのです。我々は、構造に支配されながら生きている。例えば、教育行政の締め付けが緩い県があります。行政はあまり言わないわけですよ、組合が怖いから。じゃ、自分たちがエージェンシーを発揮できているかというと、今度は教師集団の構造が個々の教師を縛ってしまっていて、新しいことが言えないというのがあるのですよね。だからね、「構造」というのは色んなところで出てきて、どういう構造があるのかということを読み解く。見つけ出す。解釈する。で、その後で、その構造をどう変えていったらいいのか。だから戦うべきは、行政だけではないのですよ、自分たちの中にも沢山あるわけ。そういうことをやっていきましょう、というのがエージェンシー論なのです。

B:はい。

千々布:という風に、一つ一つおっしゃっていただくと、色々なディスカッションが高まっていくのですよね。この最初のスライドだけで、こういうやり取りができるわけですよ。もうお一方…手が挙がらないようなら次のスライドに行きましょう。

まとめ

以上、PartⅡの記事をお届けしました。本パートのディスカッションの初めから、千々布先生は我々事務局が準備していたディスカッションの進め方の「構造」について鋭く問われました。そして、「質問に答える」という形式からは「技術的リフレクション」しか生まれないというご指摘の上で、逆質問を投げかけていただき、個々の「リフレクションをどう捉えているのか」を具体的な文脈で語ることで「実践的リフレクション」になると促していただきました。
その後のディスカッションでは、千々布先生からの問いを皮切りに、リフレクションの直線的な捉え方と円環的な捉え方の違いや、「エージェンシー」という単語の日本語訳が内包する問題点、エージェンシー論についての議論へと展開していきました。本記事のディスカッションを、この場自体が技術的リフレクションに陥りそうな構造から、実践的リフレクションへの問いをきっかけに、批判的リフレクションが行われる構造へと変化したやり取りの一つの例としても見ていただければ幸いです。

次回はここから引き続き、PartⅢをお届けしていきます。どうぞお楽しみに!

MAWARUリフレクションメンバー
(執筆:生井)

【千々布先生イベントの記事】
# 4 -1 :リフレクション3段階論からエージェンシー論へ
# 4 -2 質疑応答とディスカッション(1)(本記事)
# 4 -3 質疑応答とディスカッション(2)(公開後リンクします)
# 4 -4 質疑応答とディスカッション(3)(公開後リンクします)

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