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#1-2 リフレクションに価値を感じる人はどのようにそうなる?【対談リフレクション】

【対談リフレクション】効果的なリフレクションはどのように起きるのか?

みなさんこんにちは。MAWARUリフレクション事務局です。MARARUリフレクションでは、今回新しい試みとして「対談リフレクション」ということで、リフレクションの実践者と対談しながら、ざっくばらんにリフレクションを深めるイベントを企画しました。

以前より開催している全10回「リフレクションを対話的に再構成する~研究者と実践者でリフレクションを紡ぎなおす~」とは別の企画として行いますので、本企画の記事もお読みいただけると嬉しいです。

今回は第0回ということで、いつもお世話になっている溝上先生と事務局で2つの問いをテーマに対談をしましたので、その様子を1)概要、2)対談本編にてお届けします。

お忙しい方は概要だけでも、ご興味ある方はぜひ対談本編もご覧ください。

概要

本対談の概要は以下の通りです。

■MAWARUリフレクション事務局
山下(東京都小学校教諭)
中島(リフレクションメソッドラボラトリー代表)

■ゲスト
溝上先生

■問いのテーマ
テーマ1:効果的なリフレクションはどのように起きるのか?(前回)
テーマ2:リフレクションに価値を感じる人はどのように感じるようになるのか?(今回)

■対談から見えてきた知見(今回分)
・リフレクションに価値を感じる原動力は「ワクワクをなるべく多くしたい!」という思考や願いである。後悔のないように生きよう!という想いもエネルギーになる。
・子どもは本能的にワクワクすることしかしていないが学校教育を通してその芽がしぼみ、大人になるにつれて自分のワクワクがわからなくなるのかもしれない。
・リフレクションに価値を感じる子どもにするためには、子どもが本能的になるような、夢中になるような設計をすれば、勝手に試行錯誤(リフレクション)をする。
・課題、マイナスの出来事を改善することでも、リフレクションの価値を認知することができる。
・普段の社会や学校生活では、感情は抑制される傾向もあるかもしれない。リトリートのように、何か開放する環境をつくることで、感情が現れやすくなり、そしてリフレクションが促進されるかもしれない。
・教育で主体的に考える子どもを育てると、社会に入って「意味が分からなくても、とりあえずやれ」に順応できない場合もある。
・熟達の最初のステップは「遊び」である。遊ぶことで、型ができる。その型が軸となり、軸があるから、他と比較することができるようになる。
・「やりたい!」感情が動くようなことがなければ、まず何でもやってみるとよい。その背中を押してあげることが大人の役割かもしれない。

対談本編

リフレクションに価値を感じる人は、どのように感じるようになるのか?

中島)
では、タイミングも良くなってきたのでリフレクションに価値を感じる人はどのように感じるようになるのか?について話していきましょう。
これ聞いてみたいんですよね。僕も結構気になっているテーマで、溝上さんは昔から自分なりに振り返りをやってるって言ってたけど、それは、なぜやるようになったかっていういわゆるリフレクション原体験的なのってどういう感じなんですか?

溝上)
そうですね。なんかすごく進路に迷ったりとかするときは、なんかすごく振り返ります。自分って、どういう風に生きていくと幸せな人間なんだろうとか・・・。そういう経験はあるなあとは思います。他の人たちがあるのかどうかわかんないけど。

中島)
ワクワクする方を多くしよう!っていう思考があったんですね、どうしたらもっと楽しくなるのか?ということを考えていたと。
でも、そう思考するのは結構難しいらしいですよね。自分が好きなものを多くするため、楽しいことを多くするために何ができる?ってことがなかなか難しい。

溝上)
ですよね、自然にやっちゃう人と、自然にはできない人といますよね。
人生一回しかないからみたいな・・。そうやったら、後悔がないように生きたほうがいいかな。

高校時代に柔道を一生懸命やってる時も、もう一回高校生活したいと思わないぐらい、それこそ死ぬほどやろうと思ってやってました。その時はその時、その時は死ぬとか死なないとかそういう話じゃなかったような気がするけど、後悔がないようにっていうのは、僕の中にはあったかもしれないですね。スポーツに打ち込むとかそういうのになんかあるかもしれないですね。

山下)
なんかさっきの文脈で言うと、子供は本能的にワクワクすることしかやってないと思います。で、それを本能的にやってるんですよ。だから気づいてないんですよ。

でもそれを、学校教育を受けていく中で、どんどんどんどんその芽が絞んでいくんですよ。大人は、その感情に気づいてこなくなるんですよ。だから大人は分かってないんですよね。自分のワクワク。

だからリフレクションをして、原体験が子どもの頃だって気づいたりとか・・だから分かってワクワクの方に動いてる人と、自然と動いてる人といると思うんですけど大人でもね。やっぱそこはだから、授業っていうか学校空間が、違うようにさせてんじゃないか・・・。

中島)
そうかもしれないですね。

溝上)
私、多分勉強するの好きなんですけど、勉強っていうか、なんか知らないことを知るのって多分みんな好きっていうか・・多分好きだったと思うんですけど、なんか中学生ぐらいの時に、いわゆる受験勉強みたいなのしてて、勉強好きなんだけど、なんかこれなんかちょっと違うなっていうのがありました。教員採用試験受ける時も、苦手じゃないけど、こういう勉強ってなんかすごい本当の学びとはちょっと差があるなみたいな感じながら、採用試験の勉強とかしてる時があって・・。まあ、別に苦手じゃないけど、みたいな・・。

それはすごい感じていて、多分それが学校の教育の、今はちょっとわかんないけど、まあその山下さんが言われるような・・本来のそういうワクワクじゃないところに行っちゃってしまうみたいな・・・そう思うんですよね。

山下)
だから探究が本当に探究として機能していれば、リフレクションも機能するはずだと思ってるんですよね。それはなんかリフレクションが、上手くいかないっていうのは、探究になってないっていうのが、僕の結論なんですよ。

今の授業の中で言うと、子どもが、本能的になってない。好きなことをやっていない、夢中になってない。だから夢中にさせるってことですよね。夢中になれば、勝手にそこで試行錯誤するだろうし。

で、それでなんかさっきの話で言うと、僕自身もそうなんですけど、大人が課題にぶつかった時にリフレクションが効果的だというのは、そこが気づきやすいポイントだからだと思うんですよ。マイナスで、自分はこういうことができてないとか・・・そういう方が気づきやすい。

マイナスって本能的に見つけやすい行為だから、そういう形でだんだんリフレクションの効果が分かってきた人が、今度はだんだんワクワクすることの方を見つけていった方がいいんじゃないかっていう・・そんな感じになっていくんじゃないかなっていう・・。だから学校の教員としては、本来ワクワクの授業をすることが、リフレクションを促すことにつながるんじゃないのかと思います。

溝上)
なんかちょっとなんだろう、向き合ってる時に課題が出てきて、どうやったらうまく解決するか?みたいなのをすごく考えるし、モヤモヤしてる時って多分すごく掴みやすいし。常にヒントを求めている状態なのでなんか回りやすいな。

でもなんかその時って多分そんなに楽しくないっていうか・・・苦しい状態ですけど、でもそういう経験がもしかしたらワクワクしながら生きれる気質っていうか、そういうスケールみたいなのを身につけるのに役に立つのかな?そんな仮説がちょっと今山下さんの話を聞きながら浮かんできました。

中島)
僕も小学校の時とかにそういうのを納得いかないことを「なんでこうなってんだろう?」っていうので、考えてそれでそういうことかって思ったんですよね。

何かこれはね。プラスの成功ではないんですけど、僕がやりたくないことを嫌だって言って、でも先生がそれをやりなさいって言って、無理やりやらされてたことがあったんです。そのとき思ったのは、多分この先生はこういう、僕に対して「やりたくないことでもやる」っていうことが、教育的に大切だって思ってんだろうなと思って。そういうことをクリアして大人になっていくってことを伝えたいんだろうなって思ったんです。で、確かにそういう面も一つあるから、ひとつやってみるかって言ってやったんですけど、なんかそれをいまだに覚えてるんですよ。

それで何だろう、一見自分には意味のわからないことでも、そういうことを周りが言うのはなぜだろう?ということを「深く考えてみる」と、世の中の秘密の部分が見えてくるような、そんな体験があったんですよね。それがだから成功体験だったのかな。自分の中で腑に落ちたんですよね、ああ、深く考えると世の中の深い部分が見えてくるのかって。

で、それ以来、リフレクション的な考えることが結構楽しくなって。様々なとこにはいろんな意図があったりだとか、いろんな考えがあるんだなーって思うようになった気はしますね。

山下)
本当に子供って単純なことで一喜一憂するわけですよね。

例えば、帰りに先生にじゃんけんで勝った人から帰るよって、それだけでもめちゃめちゃ本当に喜ぶわけですよ。でもそういうことって大人ってないじゃないですか?感情が動くことっていうことで。

それは多分、同じような似たような経験じゃないけど、なんかこれまでの経験を通して、標準化しようとするからじゃないですかね。なんか感情の機微を捉えるっていうことじゃなくて、もうなんか冷静に保つことが善みたいな。でも多分子ども見ているとそうは感じないんですよね。
本当にこういうことを常にワクワクしていることを言ってるわけですよ。朝とか、小学生なんて特にこういうことが昨日あってね。とかって・・これがこうこうで・・こうやって・・ってすごく爆笑してるわけですよ。

だから子供にとっては、感情って本当にいっぱいあるのに、なぜか授業になったら、それが普通になるんだろうっていうかね。

だから、遊びの中では子どもをやっぱもってるわけですよ。でも学校生活になると、また振り返り書くってなると、うーってなるわけですよ。でも遊びのことを話したらめっちゃ喋れるのに・・だからね。やっぱ開放されてないんだろう。だからマインドの問題もあると思うんですけど。

だから、大人は、よくリトリートじゃないけど、緑の森とか行くじゃないですか。あれも多分そういう効果があるんじゃないのかなっていうか。開放というか、マインドがそうなっちゃうんじゃない。仕事モードとかってみんなよく使うと思うんですけど。そういうもんじゃないんじゃないですかね。多分、でもそこで感情を止めてるんでしょうね。それを善とするというかね。

中島)
自分の気持ちを抑えることが善。あると思います。こういうところと教育構造と社会の労働の構造みたいなところも関係してるんだろうなと思って。結局、教育って何のためかって言ったら、あれじゃないですか、昔は富国強兵みたいな話かも分からないですけど、やっぱり国力をどう上げていくかっていう、標準化して、ちゃんと生産できる人間をどれだけ増やすかみたいな感じですよね。それによって、そして最低限のことがちゃんと読み書き、算盤ができることが必須だってなるから、読み書き算盤はつまらなくても、それは働くために必要なんだからやるんだみたいな。

その延長で学校教育が続いてしまうと、自分の気持ちは興味は関係なく、生きるために標準的な力を身に着けろ!というのが教育になってしまって、教科に対する自分の不思議な気持ちや好奇心みたいなものは、抑えられてしまうのかもしれませんね。

あと、話は変わるんですけど、今思ったのは、若い子たちの行動で目立ってるのがやっぱり、言われたことをそのまま素直にやらないっていうのがちょくちょく目立ってるなって思うんですよ。人事の人からも、悪い子ではないし、ちゃんとやるんだけど、素直にやらないって言われるんですよね。(やれと言われたことの)やる意味が分かりませんとか言って。私がそれをする意味をちゃんと教えてもらわないと、やりたくありませんとか言って。

その子達は、やれと言われていることの意味が分かんないと(素直に)やらないんですけど、結構それはある意味今の教育の裏返しみたいなところあると思ってたりします。例えば、今の教育って、昔の富国強兵の教育を反面教師として、子ども達の主体性に重きを置く部分もありますよね。そうやって主体的に考える子どもたちを育てたからこそ、主体性に火がつかないと、行動ができなくなる社会人が生まれてしまった、という仮説です。

例えば学校教育では探究学習とかもですけど、それがどう自分たち世の中にとって意味があるのか?なぜそれをやるのか?ということをグループ学習とかで自分たちなりに考えて行動してきたわけですよね。

主体的に考えるのが目指すべき大人だ!と学校教育を受けてきたのに、会社に入ったら「いいからやれ!」になると、素直にやろうという気持ちにはならないかもしれないですよね。

溝上)
確かにそれは難しいかもしれないですね。何か今ここ数年で変わったのが服装検査とかですね。以前のような厳しさは求めにくくなってる気がしますね。

何だろう。さっきの教育の話と最初の方に山下さんが言われた総合の時間の話なんですけど、課題研究をうまくできてる子はキャリア意識とかもうまくいくんじゃないかっていう仮説を持って、データ取ったりしてるんですけどそういうのがあるんじゃないかな。とずっと思ってます。

なので、その子たちがやりたいことをちゃんとするような仕掛けにしないとダメだと思っていて、昔の総学みたいなやつだと低学年とかは、まだいいかもしれないですけど、高校生ぐらいになったら自分でちゃんと考えてやらないといけないかなと思っていて、それができない環境にある子たちは、ちょっとかわいそうだなっていうのはちょっと今思っています。

山下)
僕自身最近すごく、ハマってる本があって。これ何でも適用できるなと思うのが、為末大さんが、最近、熟達論って本を出したんですよ。学びには、5つの進化があると。

学びというか成長には、まず遊び、次に型、その次が観っていう見る。その次に心ですね。最後、空って言うんですよ。

空っていうのがゾーン体験みたいなもんですよ。そこで、一番最初の遊びが大事なんだと。それで自分の全体感を見ていくというか。その中でさっきの話になってくるんだけど、文句言わずにとにかく、この型でやれと続けてみる。そうしないと壁ができないんですよ。リフレクションと一緒で、要はその型とどう違うのかっていう、軸ができないから何かしら考えることができないんですよ。

で、観っていうところで、細分化して観察して見ていくわけなんですよ。例えば、その自転車が勝手に乗れるようになってきた時に、じゃあ、足のペダルに足はどんな風に接着しているのか、かかとの向きはどうなのかっていうところ等、そこに焦点を合わせていくわけですよ。

それが観るっていう部分ですけど、ここにリフレクションがものすごくかかってくるわけですよ。つまり型をやった後に、そんな風に細分化していくことでリフレクションがなっていく。でもこの前に遊ぶっていう経験がないと、多分楽しんでないわけですよ。そこに対して、だからそのマインドの問題というか・・だから学ぶっていうところの学習の中では、やっぱこういう過程ってものすごく大事なんじゃないかなと思うんですよ。これはキャリアでも、何でもそうだと思うんですけど、よく自分探しみたいな感じで旅行行くのって、多分遊びと一緒だと思うんですよね。その中でこういうことなんじゃないか。っていうキャリア像をみんな意識するわけですよね。そこにつべこべ言わずまずやれ、飛び込めってことなんですよ多分。

その中で自分との差分が出てくるから、そこで考え出すっていうのがやっぱりいいんじゃないのかなっていうことですよね。

中島)
もしやりたいことがないんだったら、気軽になんでもやってみたらいいですよね。なんでもいいからやってみて、型を身に着けてみる。

溝上)
そうですね。確かにそうかもしれないですね。型がないと差ができないっていうのは、その通りですよね。確かに、型は軸になる。

なんかその感情に触れるのが苦手だって感じるっていう話を最初にしたのを今思い出して、そのテーマ設定するときにどういうところに感情が触れるかみたいなのを考えながらテーマ設定するんですけど、その時に感情が伴わないみたいな。そういうことかはなんか結構確かに目立つなっていう。高校生とかですね。

もう決まってる子は宇宙すごい好きでワクワクするからこれやりたいみたいなのかそれもやればいいし、でまあ浮かばない子もまあとりあえずやってみれば、確かになんか差分が見えるのかもしれないな、なんかその感情が動くかどうかをなんていうかなずっと探るのも一つあるかもしれないけど、とりあえずやってみて差分をそこから探るっていうのもなんか一つなんか総探の進め方としてありなのかなっていう気もちょっとしました。

山下)
タイガーモブって会社あるじゃないですか。海外のインターンシップを行っている会社なんですよ。
そこの方々が、高校とか、そういうところに対して、私たちは、つべこべ言わずにまず背中を押すんだと。とりあえずやってみろって!そこから火がついていくっていうことを言ってて、そんなところがものすごくあるんじゃないかと。

なんかやりたいことをさせろ。みたいなことはあるんだけどそうじゃなくて、背中を押すという行為を私たちは大切にしてるんだっていうところで、まさにそういうことってまず大事だなと思うんですよね。

中島さんが言われたようにやりたいことがある子にとっては全然いいと思うんですけど、ない子にとっては、その背中を押すっていう行為、僕は大事だと思うんですよね。好きなことがない。それを見つけるのが一番難しい気がしますね。そう思うんですよね。好きなことが言える人というは、本当に少ないと思っています。それは大人もですね。

(終)

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以上、MAWARUリフレクションの新企画「対談リフレクション」でした。

話し言葉の書き起こし+簡易修正なので少々読みにくい部分もあるかもしれませんが、対談の臨場感も感じながら読んでいただけると嬉しいです。

対談リフレクションは、ゲストを学校の先生だけに限らず、企業人事やリーダーの方も対象にして今後を企画しています。

リフレクションが企業の中でどう扱われているのか、どのような課題感や実態があるのかといったことを対談を通して探っていきます。定期的に更新していきますので、楽しんでいただけると幸いです。

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