ポプラ並木

イーゼルとキャンバス

高校に入学して、4歳上の兄がかつて所属していた美術部に入ることになった。

部員は当時、15人~20人くらい。いつも来る人もいるし、ほとんど顔を見せない人もいた。放課後それぞれに美術室にやってきて、思い思いにイーゼルを立てて、油絵を描く。水彩などをやる人は少なく、ほぼ全員が油絵だった。油絵の具で服が汚れるので、理科の先生のお古の白衣をもらって、エプロンがわりに着て描いた。描く合間にお互いの絵を見たり、おしゃべりしたり笑いあったりした。

部室は、美術室の一角を板で区切っただけのスペースだった。各自の絵の具箱と、共同で使う絵の具やオイルなどの道具類が棚に置かれ、いくつか椅子と机もあって、そこでお弁当を食べた。
部室の窓からは、サッカー部や演劇部の練習が見えて、当時好きだった男の子が見えないかとこっそりのぞいていた。

作品を発表するのは、高校の文化祭での展示と、書店の2階のギャラリーコーナーでの部展だった。夏休みには2泊3日のスケッチ旅行に行った。卒業して大学に通っている先輩たちも来たりして、食事も自分たちで作って、楽しかった。

普段描く絵には、6号か8号のキャンバスを使う人が多かった。文化祭では50号の大きな油絵を描いて出すのが恒例だった(50号は、畳の3分の2くらいの大きさ)。50号のキャンバスを毎回買うことはできないので、新入生は卒業した先輩の残した絵を塗りつぶして、その上に描いたりしていた。

文化祭の直前になると、描きかけの作品を仕上げたり、共同制作の「ステンドグラス」(大きな切り絵を皆で作って廊下の窓に貼る)や受付で配る手作りのしおりの準備で忙しい。活動が遅くまでかかった夜には、顧問の先生が部員のために、ストーブに大鍋をかけてラーメンを作ってくれたこともある。

とはいえ、年中忙しいわけではない。暇なときは、美術室の机を並べて両端に筆洗いを置き、その上に棒を渡してネットがわりにして、卓球をして遊んだりした。

デッサンなどの基礎的な指導や練習はほとんどなかったと思う。それぞれがひたすら自由に描いていたことしか覚えていない。時々先生がやってきて、絵に手を入れることもあったけど(!)あまり良い効果はなかった。同じ学年のAちゃんは「先生が手を入れると変な絵になる」と怒っていたものだ。

こんな風に、各自が自由に描いていたので、一人一人の絵がものすごく個性的なものになっていた。

おおらかな筆使いで描かれた風景画や建物の絵。明るい色調の時計塔の絵もあったし、絵の具のチューブから出したままのビリジアンの緑をそのまま塗ったような素朴な木々の絵もあった。
隅々まで綿密に塗られた、だまし絵のような不思議な浮遊感のある室内。チェス盤やチェスの駒も描かれ、謎めいた雰囲気を醸し出す絵だった。
深い紫色を基調とした独特な色使いの林の風景。描いていたのは、口数の少ない照れ屋の男の先輩だった。
素直な描き方での自画像。
静かなタッチで描かれた鳥や静物。
幼くして亡くなった妹さんをモチーフにして、少女がいる風景画ばかり描いている先輩。
実験的な描き方に挑戦する人もいた。真っ白な絵の具をキャンバス全体に厚塗りして、そこにナイフで傷をつけて線を描き、その線の中に、薄めた茶色の絵の具を流し込んで線を表現していた。

私は風景画や静物画、ファンタジーに登場する架空の生物を描いた。今考えれば、随分稚拙な絵だったと思う。油絵もあまり得意ではなかった。絵の具を塗れば塗るほど、どうしていいかわからなくなり、うまくいかなくなるような気がして...。さらっと描ける水彩の方が合っていたのかもしれない。絵の具を重ねて塗っていく油絵の面白さが、私にはわかっていなかったのだろう。

(記事のトップ画像は、私が高3の時に描いた50号の風景画。白黒に印刷されているのでわかりにくいけれど、現物はカラーで、コーラルピンクを全面に下塗りして、その上に街路樹を描いたもの。家の近くのポプラ並木の道の絵だ。本当はもっと描き込む予定だったのだけど、どうしたらいいかわからなくなって、下塗りの色がほぼ露出したままの状態で終わっている)

その頃、私が一番親しくしていたのはさっきも登場した同じ学年のAちゃんで、絵がとてもうまかった。兄も姉もこの美術部出身という、三兄妹の末っ子だった。彼女の絵のいくつかを、今でもかすかに思い出すことができる。

テトラポッドに波が打ち寄せる海辺を描いた50号の絵。(この絵は賞を取ったか何かで、高校の食堂に飾られた)
部展に出品された絵の一枚は、夕暮れの街に佇む少女のシルエットの後ろ姿。オレンジ色に暮れていく空に、何本もの電線が走っていた。

Aちゃんの筆の跡は思い切りがよく大胆で、時に激しさも感じられるタッチなのに、仕上がった画面からは、迫力と同時にどこか切ない抒情が伝わってくる。そんな魅力のある絵だった。私はAちゃんが羨ましかったし、憧れてもいた。

彼女は、地元の大学の人文学部に進んだ。
大学生の時に描いた絵を見せてもらったことがある。淡い青緑色の画面の中で、座ってギターを弾く青年の絵だった。当時付き合っていた彼がモデルだったようだ。寂しさをたたえた静かな美しさが感じられた。

そして、大学を卒業したAちゃんは、東京に出て美術の勉強を始めた。
当時、私は東京の大学に通っていて、女子限定の安い下宿に住んでいたのだけど、Aちゃんはその下宿の二つ隣の部屋にやってきた。近くのパン屋でアルバイトしながら、美術の専門学校に通った。私のバイト先の小さな本屋に作品を展示し、販売に至ったこともあったようだ。

その後、彼女は仕事(美術関係ではない)を見つけて転居し、疎遠になってしまったが、1,2年後に結婚が決まり、あの絵に描いていた彼と結婚した。
そして、出産、育児を経て、彼女はなんと美大に入り直したのだ。日本画を専攻し、卒業。今も日本画の作品を発表しているらしい。絵に対する情熱を、彼女はずっと持ち続けていたのだろう。

かつての美術部のメンバーで、今でも連絡を取り合っているのはこのAちゃんだけ。それも年一回の年賀状だけ、という薄いつながりだ。
日本画の世界に入った彼女の絵は、整っていて美しいけれど、私は彼女が高校生や大学生の頃の、大胆でちょっと切なさのある絵も懐かしく思う。人は変わっていく、絵も変わっていく。それは仕方のないことだけれど...。
せめて、私は、かつての彼女の絵をずっと覚えておこう。そして、これからも彼女が幸せに、彼女が望む絵を描き続けていくことを願おう。

いつだったか、Aちゃんが言ったことがある。

「あの美術部、レベル高かったよね...」

そうかもしれない。あの自由さ。各自が自分が描きたい絵を自由に追求していたあの美術部。
色々な画家や作家に影響を受けた人もいたのだろうけど、誰も、何かの真似だけの絵にはなっていなかった。一人一人がそれぞれに、自分なりの深みを目指して描いていた。上手く描けなくて悩んだり、迷ったりしながら、それでも楽しんでいた。美大に進む人はほとんどいなかったけれど、みんな絵を描くのが好きだったのだ。
もう、あの頃の絵を直接見ることはできない。でも、もしも、今、展覧会の会場にかけられていたら、思わず見入ってしまうレベルの絵が、あの中にはあったのではないかと思う。

鳥や静物を描いていた先輩は、友禅染(だったかな?)の絵を描く仕事に就いたらしい。アニメが大好きだったBくんは、テレビ局に就職した後、アニメの仕事に関わるようになった。ビリジアンの風景画を描いたCちゃんはコピーライターになった。

その他、会社に勤めたり、書道の先生になったり、進路はそれぞれ異なるけれど...あの美術室で絵を描いた日々は、みんなの中に、どんな風に残っているのだろう。
今でも絵を描いている人が、他にもいるかもしれない。
油絵の具の匂いがしたあの汚い部室と美術室。あの部屋で過ごしたたくさんの時間が、今の私たちに、遠く遠く繋がっている。

Aちゃん、元気? 私、また絵を描き始めたよ。
随分、回り道しちゃったけどね。

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