(読書)表現には他者が必要だが、教室には他者がいない。
おはようございます。
今日は日本の学校教育(特に初等教育)について考えていたときに、おもしろい本を読んだので書きたいと思います。
劇作家、演出家であり、現代口語演劇理論を確立させたと言われる著者。
また、同時にこちらの本も読みました。
どちらもコミュニケーションとアイデンティティについて書かれた本です。
要約すると、
他者とは話せば話すほど分かり合えないし、
自分のことも実際には分からない。
人と相対するときの、相手や環境により、コロコロ変わる自分はすべて自分(分人)。
私が面白かったのは、オリザさんの「教室には他者がいない」という言葉。
日本の学校教育で表現は学べない。
この言葉を聞いて、私の中の、小学校教育の違和感がすっきり説明されました。
何かを教室で発言すると、周りはシーン。
唯一の絶対的評価者は、先生。
そんな環境で、自分を表現して他者にどう受け入れられるかを勉強することはできない。
私が日本の教育に感じる違和感は、想定されている環境がとてもヘンだから。
まず、多様性がない。大学で留学するまで大半が日本人というのは、相手が別ものだ、まったく違う人間だ、というのを理解する機会がなかなかない。
あ、うん。で通じるコミュニケーションが異常であり、たくさん通じるまで説明することが本当は当たり前。
空気など読まなくていい。本当はそういうのが社会なのに、仮想社会である教室は、そうなっていない。
先生はみんな、ひとりひとり個性があって、と言うけど、結局は頭の良さで縦一列に並べられ、家庭環境や言葉や生い立ちも似たり寄ったり。
サウンドボードであるべき周囲の生徒も、芸人みたいに自分の表現を笑うか、揶揄うかしかできない。
相手が完全に別物で、まったく通じないという前提でコミュニケーションをしなければならないにもかかわらず。
本当の自分さがしをする子が多いのも、十分に自分を表現する機会がなく、認識できていないから。
自分のアイデンティティなど、相手によりバラバラな反応をする、バラバラの自分というものの寄せ集めであり、確固としたものではない、と心得ていないからではないか。
そう思うのです。
あなたと私は別人。
すべてが違うから、嫉妬も怒りも、期待も起こらない。
だからこそ、たくさん話をしなければいけない。
そして、話せば話すほど伝わらずに溝が深まる。
でも、それでいい。
他人は気にせず、自分を表現したらいい。
あいつ寒いな、が、SNSの世の中ではクールになれる社会。
どんどん、コロコロ変わっていいから自分っぽいものを、アイデンティティなど気にせず追求したらよいと思う。
これからの日本には、秩序や規律より、根拠なき自信と表現。
苦渋の決断でしたが、インターの教育はまだまし、だと思います。ちゃんと教室に(どちらかというと多様な)普通の人間がいるからです。
自分の道を突き進む若い世代の子がいることは、私の希望であり、喜びです。
サラリーマンは最後の手段にしろ、と子どもたちにも言っています。
悩んでてもいい、でも最後は根拠なき自信を持ち、他人とうまくつながって、やりたいことを、やりなさい。
それができる日本の教育出会ってほしい、と思いました。
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