私以外私じゃないの。をここに刻む。
向き合いたくない問
ひとの多様性、違いは愛しているのに。
じぶんの多様性、違いは愛せない。
ひとの痛みには敏感なのに、
自分の痛みには鈍感で。
不器用に自分を守って、
自分で自分を傷つけて。
いい加減、愛してよ、と泣き叫ぶわたしがいる。
どうやったら、自分のことを心から愛することができるんだろう?
ごあいさつ
アドベントカレンダー最終日となりました。ラストはやっぱり緊張するなぁ。
この一年は本当に色々なことが起こりました。
起こるべくして起こった。
嬉しいことも、怒りを感じることも、悲しいことも、楽しいことも。
喜怒哀楽をプレゼントしてくれたのかな?と思うほど、感情が忙しかった。
特に、この25日間は色濃く。
メンバーのことばを通して私の内面へアクセスしたことも大きいかなと。
過去のできごとから生まれた、私をジャックする黒い海と向き合うことになった年末。
お付き合いいただけると、嬉しいです。
こんな人へ向けて書いています
こんな人が書いています
私が薄まったり、濃くなったり。
アドベントカレンダーが始まったとき、私はタイにいた。約一か月間、アジア各国をゆらゆらと渡り歩いていた。それはもう、とても自由だった。
予定は決めず、明日に対する不安は何もなく、自然と"やりたいこと"しか考えていない日々だった。
瞬間を重ねるように生きる。今、ここに集中する。極めて、私純度が高い時間だった。
しかし帰国し、アドベントカレンダーが折り返しにかかるそのころ。
心の中が黒い海のようなものに侵食され、身体が重く、朝起きることが辛くなってきた。これは、初めて現れたわけではない。
大量のやることに追われ始めると、幾度となくじわじわと私をジャックしていく言語化できていないもの。
そうこうして、年末から逆算して今を見過ごし。私を薄め、私でいられない時間に転じていった。
物心がついたときから、私は「聞き分けの言いお姉ちゃん」だった。
小学生になり、器用貧乏で努力家だったため、何でもそこそこできた(自分で言うんかい)私は「よくいる優等生」として行動していた。
中学に上がり、泥沼の思春期女の園にいた私は、仲間外れにされないために「優等生だけどちょっと悪さもする子」を演じていた。
それ以降も、環境に合わせてポジションを変えていっていた。
そして、大人になったいま。
「よき妻」であり「頼りになる娘・姉」であり「期待に応えてくれる業務パートナー」であり「理解あるリーダー」…であろうとしている。
私なんだけれど、私じゃない。
私は、環境に合わせて、果たすべき役割を引き受ける人生を送ってきた。
妻として。
家事をしっかりこなし、経済的に自立し、プライベートには踏み込みすぎず、依存しすぎないよう生活する。
夫も同時に独立したので、夫の可能性を狭める影響を及ぼしたくなく、特に経済的自立はとても意識していた。
姉・娘として。
何かあっても私が背負えるよう、金銭的にも経験的にも備え、家族が心配になる種はギリギリまで連絡せず。家族の駆け込み寺であろうとしてきた。
両親は歳をとっていくし、弟には弟の家庭がある。妹はまだちょっと不安。みんなが幸せであれるよう、私が何とかできる状態であろうとしてきた。
仕事のパートナーとして。リーダーとして。
できる限り相手の時間を奪わないよう、先手先手を読んで、相手が考えていることをカバーするよう必死に仕事をしてきた。
一緒に働く仲間が傷つかないよう、楽しくいられるよう、何かあった際は私が全て背負う体制を徹底してきた。
相手のしあわせを切に願い、役割を全うする私。
すべて、関わりは違えどだれかと人生を共にしているのに、私は背負うことを前提とし、こころの中ではひとりで生きていた。
それは、ある日突然失われる。
多分、はじまりは生みの父ともう会えない(生きているとは思う)といきなり母から宣告されたとき。
幼いながらにそれ以上聞けず、そっか。とことばを飲んだ。母は仕事と弟・妹の育児に追われていて、迷惑をかけないでいることが私にできることだった。ある日突然、ひとつ、甘える居場所を失った。
ただ、私は祖母に大切に育てられた。おばあちゃんっ子だった。仕事して自立していて、おしゃれで、好きな物を買って、好きなところへ行ける。私の憧れだった。
祖母がいたから、そこまで寂しさは感じていなかったように思う。
(中略)
この間にも、急にいじめられたり、親友に裏切られたり、交友関係で急によりどころだった居場所を失うという経験を何度かする。
そして高校受験期。休みの日は一緒に朝喫茶店へ行き、買い物へ行き、泊りにいっていた、大好きな祖母に異変が起きた。
突然、祖母は病魔に襲われた。ALS(筋萎縮性側索硬化症)だった。
発病からはあっという間だった。歩けなくなり、食べられなくなり、話せなくなり、息ができなくなった。
凄まじい速度で祖母が死へ向かっていく現実を見ることが耐えられず、受験勉強が忙しいという理由で、できるだけ病室で過ごす時間を減らした。
ちゃんと、私は面と向かって想いを伝えられぬまま、祖母は最後、わたしに「大好きなりみへ」という書き出しで、「あーちゃん(祖母)がいなくなったら、おじいちゃんや、ママを頼るんだよ」という手紙をのこし、この世を去った。
私の憧れであり、安心して生きられるあたたかな"祖母のとなり"という、居場所を失った。
思えば、私がわがままでいられる相手は、祖母だけだった。
でも当時、私より悲しむ家族が多く、私は客観的に葬儀の様子を見ていたり、悲しいという感情に蓋をしてやりすごした。
黒い海が生まれ、広がってゆく
大切なものは、儚く消えるものだと心に植えた。
そう予防線を張ることが、私が壊れぬよう守る方法だと信じていた。
なくてはならない大切なものが育ち、いつか消えることが怖い。
だから、甘えられない。頼れない。役割としてひとり背負う方がラクだ。
そうこうしているうちに、自分のためだけのこと、今だけを感じて行動することは、役割の遂行を邪魔するものとなり、私にとって生命活動を脅かす行為となっていった。そして、自由な私の声を遠ざけた。
私はね・・・という、私が主語の声を遠ざければ遠ざけるほど、海は広がっていった。でも、全ては私を守るためでもあった。
アジアにいるときは、物理的にも精神的にも日常の役割を担う時間が激減した。
私が、好きな服を着て、行きたいところへ行って、食べたいものを食べ、会いたいひとに会い、やりたいことをやる。そんな日々だった。
"私"が主語の声を聞き、生き始めた。
役割を担い守る行為が、機能しなくなってきていたことに気がついた瞬間だった。
そして、その綻びは日常にも漏れていた。変化に気が付いた夫とぶつかり、大喧嘩をして心の声を伝えた。対話の末、祖母が亡くなってから初めて"頼る"ことができる相手に再会できた。
私以外、私じゃないの。
長々と書いてきたが、結局どの私の一部も、私のしあわせを願っていた。
私を押し殺して役割を担ってきたことも、
自分の痛みに鈍感なことも、
自分で自分を傷つけてきたことも、
大切なものを失う大きな痛みから自分を守るための行為だった。自分を愛しているがゆえの、選択だった。
それに気が付いた私、このことを理解してくれている夫、読んでくれているみなさんがいる今。
報われなかった過去の気持ちを泥臭く整理できた2022年。
そして、ここまで生きてくれた全ての私のアイデンティティに感謝して、閉じたいと思う。
これからも、また同じことが起こるかもしれない。
だって、やっぱり日常は尊くて残酷であり、終わりと背中合わせだから。
だからこそ、いのちのあわいの中にただただ身を任せて漂うことを赦す。揺蕩う。そんな人生を生きていく。
さて。
そんな私は2023年をどう生きているかな?
謝辞
みなさまにバトンを渡し続けていただいたおかげで、本日を迎えられました!!!泣
アドベントカレンダーにご参加いただいた、24名のみなさま。
ここまで読んでくださった、繋がってくださった、私の大切なあなた。
家族、大切な気持ちを遺してくれた、あーちゃん(祖母)。
私にあたたかい居場所をつくってくれている、夫。
そして、私。
みなさま無くして、ここまで向き合うことはできませんでした。
正直、超苦しかったです。笑
この2022年は、個人事業主として数字だけ見れば、外から見れば、上手くいっているし、フルリモートフルフレックスも叶えられました。
でも、ずっと、本当にやりたいことは何なのかという呪縛に縛られ、四半期サイクルで心身を壊し、暗闇の中にいた年でもありました。
ただ、怖いと思って隠してきたことと向き合いきった今。いつ何が起こるか分からないし、起こったときに助けになるものでもないけど、純粋に興味があることへ舵を切れそうな気がしています。
2023年も、どうかよろしくお願いいたします!
私はやっぱりひとが大好き!!!
おしまい。
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