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シャボン玉のラルラ

 追いかけて掴もうとしても、風に揺られて消えていく。太陽の光に照らされたシャボン玉は、まるで煌めく宝石に見えた。
「ラルラ、ラルラ」
 どこで覚えたのか、一つ年下の優花は、あの時も陽気に歌っていた。
「桜子、もう帰ろうか」
 母が、シャボン玉に夢中になる私を呼んだ。私はうなずき、母に駆け寄った。母の右手には私が、左手には優花が並ぶ。
 7歳のあの日の私の記憶は、ここで終っている。

 車が突っ込んで母と優花が亡くなったと聞かされたのは、事故から3日も経ってからのことだった。私だけが奇跡的に助かった。母が守ってくれたとか、運が良かったとか、周りはいろいろと騒ぎ立てたが、あの時の記憶がプッツリとなくなっていた私は、まだ夢の中にいるようだった。記憶がないのは、きっと事故のショックからだろう。医者も無理に思い出そうとしなくていいといった。

 目を覚ました時、病室には3つ年下の妹の美衣が、不安そうに父の手を握っていた。まだ3歳だ。母が亡くなったことも、よく遊んでくれた優花がいなくなったことも、多分、わかってはいない。ただ、涙を堪える父の姿を見つめ、とんでもないことが起きているのだろうと感じ取っているようだった。
「痛かったな、怖かったな」
 父の大きな手は、私の頭を優しくなでた。母がいなくなるなんて、その時の私は、想像もしていなかった。
 
 事故から1週間ほどして、病室の外が騒がしいことに気が付いた私は、声のする方へ顔を向けた。すると、そこには、優花の両親が父につめよっているのが見えた。
「どうして、こんなことになったの!あの日、穂香さんがいながら、なんでこんな…」
 今思うと、優花の両親もどこに怒りをぶつけていいかわからなかったのだろう。母と優花の命を奪った運転手も、その場で死亡が確認されていた。
「申し訳ない」
 頭を下げた父は、あの時、どんな思いをしたのだろうか。大切な妻を亡くし、娘もまだベッドから起き上がれない。悔しさと悲しさで一杯だろうに、ただ頭を下げ続けなければならない父が不憫でならなかった。小さな美衣を抱え、きっとやるせない思いをしていたに違いない。

 あれから18年が経つ。優花の両親とは今でも家族ぐるみの中だ。月命日には、一緒に墓参りをし、食事をする。それがいつもの決まりだった。
「ラルラ。ラルラ」
 縁側で美衣が歌う。庭先では、駆け回る大地が、美衣の歌を真似ている。大地は、あの時の美衣と同じ年になった。18歳で大地を産んだ美衣の顔は、すっかり母親だ。
「その歌、何?」
「知らないの?よく母さんが歌ってた」
「そうね」
「私ね、母さんのことよく覚えていないの」
 美衣が初めて、あの時のことを口にした。
「あの日、私は少し風邪気味で、お祖母ちゃん家に預けられて。慌てた父に連れられて、病院にかけつけた時の記憶ははっきり覚えているのにね」
 美衣にもつらい思いをさせた。なのに、私は今まで一度も、ちゃんと美衣とあの日のことについて話をしたことがなかった。
「ごめんね…」
「お姉ちゃんが何で謝るの?」
「わからない」
 あの日、もしかしたら私が公園に行きたいっていったのかもしれない。もう少し、もう少しって、駄々をこねたのかもしれない。後少しだけ時間が違っていたら、もし左手を掴んだのが私だったら、どうして、私だけが助かったのだろう。お母さんの変わりに、優花の変わりに私がいなくなれば、皆、幸せだったのかもしれない。私は、あふれる涙を堪えることができなくなった。
「やだ、何で泣くの?」
「ううん、何でもない」
 美衣が18歳で結婚すると言い出した時、反対する父を一緒に説得した。幸せになりたいんだよ、そういった美衣は、私よりも今をしっかり生きているような気がした。お腹には、また、新しい命が宿っている。明日、美衣は、この家を出て隣町で暮らし始める。
「幸せになってね」
「うん。お姉ちゃんも。…ねぇ、お姉ちゃん」
「ん?」
「ありがとう。私、幸せだったよ」
 美衣の言葉が心にしみた。私は、また涙をこぼしながら、美衣の頭を、あの時の父と同じように優しくなでた。
「ねー、見てみて」
 大地がシャボン玉を飛ばす。シャボン玉は、空高く風に揺られて、あの日のように煌めいて消えていく。
「おーい、帰ったぞ」
 玄関から父の声がした。
「今日は美衣と大地の好きなハンバーグ、作るからな」
 大地の喜ぶ声がした。

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