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理柚→ 夜野群青  06/12

夜野群青さんとの往復書簡、6話目です。
先日、群青さんからいただいた手紙がこちら。

長雨の毎日ですが七夕の夜は雨がやみ、こちらでは時折絶え間なく流れる雲の隙間から朧気な月が顔を出していました。
織姫や彦星が群青の河に涙を零すことなく、月明かりのもと短い逢瀬だとしても無事に出会えたのかと思うと、虚構の物語であるというのに、わたしは少し安堵してしまいました。
ただここ最近の天候を見ると、遠い未来には催涙雨だとか雨の名前も忘却の彼方に追いやられてしまうのかもしれませんね。

前にもらった手紙の「揚げた茄子の色」
確かに、鮮やかで、凛と澄んだ色をしています。
とても美しい色です。
わたしの住む地域は水なす漬けが有名で、食の進まない夏になると、大きな茄子が糠と一緒に袋に入れられて店頭に並びます。糠を取り除き、茄子の実を包丁で切らずに手で割いて食べます。割くとじゅわじゅわと熟れた果実のように瑞々しいので「水茄子」というらしいのです。
結婚してこの土地に住み着いてから十七年の歳月が経とうとしています。
それまでは市街地に程近い土地に住んでいましたが、幾許かの距離を隔てるだけで、こうも違うのか!と驚いたものです。
春には蕨や筍、夏には紅ずいきに水茄子、秋には里芋と春菊、冬の終わりには蕗、朝に採れた野菜が我が家の食卓を飾ります。
こうしてこの地に住まなければ、水茄子の渋みのある艶やかな色や淡甘な滋味溢れる味に出会うことはなかったでしょう。
わたしにとってそれは、世界のへし折れる音、でありました。
ちょっと話が逸れましたね。
手紙を貰ってから「好きな色」を必死に頭に思い浮かべてみましたが、どれか一色を選ぶとなると難しいのです。
そこでわたしは「嫌いな色」について考える事にしました。嫌いな色が判れば、好きな色が判るのではないか――。
然し乍ら、これまた思い浮かびません。
これは夏の色に限った事でもないようです。
秋の色でも、冬の色でも、海の色でも、空の色でも、どうやら。

そして、わたしは前回の返事をもらってから、随分と長い間、何も書けないでいました。自分の内に答えが無い、もしくは答え合わせがまだ出来ていないということだろうな、と思います。
そんな理由から長い間、返事をお待たせしてしまいました。
初めに考えていた内容とはかけ離れたものになってしまったけれど、書けないでいることを素直に書けば良かったのですね。
こんな手紙もありかしら?
夏の終わる頃には、答え合わせができて、そのことについて書けるといいなと思ってます。

夜野群青

長い長い梅雨が明けたと思ったら、今度は灼熱の夏がやって来ました。季節の移ろいを味わう以前に、その激しさに翻弄され、押し潰されそうな自分がいます。あなたがおっしゃるように、こんな季節の中では、染み入るような雨の名前もいつしか忘れ去られてしまうのかもしれません。

そんな弱気な自分を後目に、蝉はかしましく、蔓草は天を目指して伸び、次々と花を咲かせていきます。夕刻にはぐったりしていた樹木の葉も、わずかな夜露を吸い込んで朝には息を吹き返している様に、「もっとしっかりしろ!」と喝を入れられている気分にもなります。

前回のあなたのお手紙にあった「水なす漬け」、食したこと、あります!とても美味しくて、止められなくなったことを思い出しました。手で割いて食べる、というのも、包丁を必要としない柔らかさと、均一に切られることを拒否した気高さが溢れている!と、ますます茄子の虜になりました。

そうそう、以前、東北のあるお宅に立ち寄ったときのこと。大きな器に山盛りの小さな茄子のお漬物をふるまっていただきました。つやつやした紫の愛らしい形に目がくぎ付けになってしまったのは勿論のこと、いくら茄子が好きでも全部は食べられない、という惧れと、一つでもつまむとその茄子の山の均衡が崩れるのではないか、という緊張感で、結局、一口も食べることができませんでした。それ故に、あの茄子群はひときわ美しく私の思い出の中で生き続けています。

本当に茄子というものは、色といい艶といい、食感といい、食され方といい、なんて官能的な野菜なんでしょう。90パーセントが水分であっても、食べ過ぎるとからだを冷やす、といわれようが、私は茄子を、夏の茄子を欲してしまうのです。

ああ、すみません、私の茄子愛が溢れてしまいました……。

茄子に限らす、旬の野菜というのは、見た目も美しく、苦みやえぐみ、辛みも全部ひっくるめて味わい深いものだ、と最近しみじみ思います。あなたの食卓に並ぶ野菜を思うだけで、なにかしらほっとするような、沈んだものを引き上げてくれるような、そんな気持ちになってきます。その土地の空気と水で育ったものは、何にも代え難い生命力に満ち溢れ、まぶしく、体にしみわたるような旨みがあるのでしょうね。

この特別な夏が過ぎて、次の季節が来るころには、また新しい「美しく美味しいものたち」に出会えると思うと、ほんの少し前向きな気持ちになってきます。そして、耳をすませれば、もしかしたら自分にも「世界のへしおれる音」が聞こえるのかもしれない、とぼんやり思ってみたりもするのです。

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