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理柚→ 夜野群青 02/12

夜野群青さんとの往復書簡、2話目です。
先日、夜野群青さんからいただいた手紙がこちら。

催花雨――うつらうつら眠っている花達を呼び覚まし春を促す雨があるのだとあなたの詩から知りました。そこから紐を解き、日本語の奥ゆかしき美しさに触れ、次に降る雨は彦星と織姫が夜空に流す催涙雨かしら等と悠長にも思いを巡らせていたら、此れ迄の生活ががらっと足元から崩れ一変するような日常が訪れてしまいました。窓の外をふと見ると躑躅が咲き乱れています。先に言ってしまうと、もっと暢気な話をあなたとしようと考えていたのです。例えば、蕨の灰汁抜きをした時にできる色水が翡翠色でそれはそれは鮮やかなので、好きな春の色はなんですか?とか。
それなのについSNSを開いて勝手に落ち込んだりして、飽きもせず毎日誰かと誰かが言葉を唯一の武器にして争っては机の上で気化し虚しく宙に消えてゆくのをただ見届けるだけの、わたしは無力な人間なのだと、わたしは私を形成する輪郭の一番外側を改めて視たりなんかしながら、目を閉じるしかできないでいました。
護るべきもののために貫く正義は、悪く言い換えれば自分に都合の良い答えとも云えるし、他者にはある種の暴力ともなりうるのでしょうか。
かくいうわたしもその一派であり、自分の内に蔓延っている行動原理であるからして、わたしも愚者であることの確証だと感じているのです。

人と人は理解し合えるか、わたしは知り得たいのです。
もしできないのだとしたら、どうしてわたしたちに言葉が在るのでしょうか。

あなたの詩と出会ってから三年の月日が過ぎても、ぼんやりと、わたしはあなたのことをほんの少ししか知らないことに気づくのです。
何処で住み、どんな物を食べ、誰と笑い、何を視て涙するか、どんな顔をして言葉と向き合っているか、具体的なあなたのことをなにも知りません。
わたしがあなたについて知っていることと云えば、花が好きで、そしてその花が朽ちるときをも想うこと、旋律を奏でることに造詣が深く日本語に敏感なこと、美しい言葉を紡ぐこと、なにかを書くことで自分を知ろうと試みていること、そしてわたしたちは女であること。多分、僅かこのくらいなのです。たまに詩を読んでわたしたちは似ているのかと錯覚してしまいそうになりながら全く似ていないとも思うから、わたしはあなたをもう少しだけ知ってみたいと思うのかもしれません。



詩ってなんでしょう。
あなたにとって詩とはなんでしょう。
わたしにとって詩とはなんでしょう。
そもそもシってなんでしょう。

言葉で繋がるわたしたちだから、
言葉でしか繋がれないわたしたちだから、

/ シのはなしをしよう

夜野群青

以下、私、理柚からの返信です。

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花の季節が終わり、緑の季節を迎えるときに降る雨の名前が思い出せずにいます。そんなうつろな毎日の中で、そら豆のふかふかした寝床に爪が沈むとき、耳をすませば浅蜊が砂を吐く音が聞こえたとき、夜が深まったときの空の色を見たとき、あなたの手紙を、そしてあなたがつくったものを手のひらに置いてみたりします。

そう、私の元には、あなたがつくったもののいくつかが確かに存在していて、(瑕疵にまつわる物語や、うつくしく、あいらしいものたち、ことばを封じ込めたどこかせつないきらめきなど……)それらは、形状は違ってもひとつの線でつながっていることを感じます。あなたはきっと、たましいの近くにある創作の窯の火が、ずっと燃え続けているひとなのでしょう。

そんなあなたとよく似ていながら、ある一点においては全く違う「私」についてなにかを語ろうとすると、どうしたことか言葉がどんどんしぼんでいくのを感じます。いわゆる「こころ」で思うことのどれほども的確な言葉として外に出すことができず、出したところでそれはとてつもない嘘になったり、思いもよらない真実になるということに臆病であるが故なのでしょう。そんな私ですから、あなたの「理解し合えるか」という問いが胸の深くにぐさりと刺さり、口ごもるばかりなのです。

でもそんな「言葉」を使って、私は「詩」を、もしくは自分が「詩と思い込んでいるもの」を時々つくったりするのですから、おかしなものです。

本当に「詩」って一体なんなのでしょうね。

明確な答えが欲しいような、わからないことを楽しんでいたいような気もしますが、せっかくだから「読む」ときの話をしてもいいですか?

詩文が鳴っている、と感じることが時折あります。文字列があたまの中で音になって鳴り、向こう側の呼吸と息継をも感じられる、読むという意識を手放しても、声として音にしなくても、なだれこんでくるその感覚。その感覚を、私はとても大切に思っていて、それが一体何から来るものなのか知りたい、と常々思っています。静かに潜んでいるテクニックなのか、緻密に組み立てられた構造なのか、説明できない揺らぎなのか、筆者のまばゆい感性なのか、それともそのときの「私」という箱の状態なのか。

あなたは、詩や文章を読むときにどんな感覚を大切していますか?

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