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短編小説

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#昔の話

きりぎし(短編小説)1/4

きりぎし(短編小説)1/4

(昭和世代 或る夏の夜の夢)

 ごく簡単に、すすめよう。

 去年の夏といえば、梅雨に雨が降らなかったり、と思ったらまた、大雨にもなったりの、へんてこな夏であったが、これは、その時分の話である。(と、男は数十年前、筆者に語り出した。)

 私は六月に学校を放り出されていたくせに、学生だといつわって、一カ月ほどアルバイトをした。奇矯な精神の時期でもあって、仕事のことなどまるきり頭にはなく、といって

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きりぎし(短編小説)2/4

きりぎし(短編小説)2/4

(昭和世代 或る夏の夜の夢)

私は怖気づきながらも避難のすべを考えた。付近の集落まではそう遠くないはずだし、とうぜん上り坂より下り坂を選んだ。

 走り出すと再び体はおどりあがり、もう、こけないようにすることしか頭にはなくなった。幾ばくも走らないうちに、忌まわしい鎖は外れてからまり、たちまち後輪はロックされてスリップし、エンジンがぷすっぷすっと断続的の吐息とともに切れる。そのつど悪路へ下車しなけ

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きりぎし(短編小説)3/4

きりぎし(短編小説)3/4

(昭和世代 或る夏の夜の夢)

 
 朝だとわかるやいなや、羞恥に似た嫌悪感がつま先まで広がり、全身が麻痺したようにしばらくは動けなかった。半身を起こし、周囲を見ると原因がわかった。
 バスを待つ客が数人いて、こちらをチラチラのぞいていた。私の姿はかなり不潔だった。早いこと立ち退きたかった。それにしても、この吐き気はどうだ。生肉の臭気がする。
 峰には雲がひくく迫り、川べりの道端の人はよそよそしか

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きりぎし(短編小説)4/4

きりぎし(短編小説)4/4

(昭和世代 或る夏の夜の夢)

 長く生々しい無気味な夢からやっと私は逃れ出た。

 我に返ると、川沿いの停留場のベンチへ横になっていた。空も晴れ上がっているし、バスを待つらしい数人の男女も、なごやかな談笑の最中で、そこには田舎特有の大らかな空気が醸されていた。妙齢の女性もいたが、おかまいなしに、私は泥まみれの衣服を着替えると、出発する準備にとりかかった。準備といっても、荷をくくり、ジュースを買っ

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(短編小説) きりぎし 【統合・改稿版】

(短編小説) きりぎし 【統合・改稿版】


(昭和時代 或る夏の夜の夢)

1 おろかな宵

 ごく簡単に、すすめよう。

 去年の夏といえば、梅雨に雨が降らなかったり、と思ったらまた、大雨にもなったりの、へんてこな夏であったが、これは、その時分の話である。(と、男は数十年前、筆者に語り出した。)

 私は六月に学校を放り出されていたくせに、学生だといつわって、一カ月ほどアルバイトをした。奇矯な精神の時期でもあって、仕事のことなどまるきり

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