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(短編小説) きりぎし 【統合・改稿版】



(昭和時代 或る夏の夜の夢)


1 おろかな宵


 ごく簡単に、すすめよう。

 去年の夏といえば、梅雨に雨が降らなかったり、と思ったらまた、大雨にもなったりの、へんてこな夏であったが、これは、その時分の話である。(と、男は数十年前、筆者に語り出した。)

 私は六月に学校を放り出されていたくせに、学生だといつわって、一カ月ほどアルバイトをした。奇矯な精神の時期でもあって、仕事のことなどまるきり頭にはなく、といって全然さぼりもしなかったから、職場のバイト仲間や若い社員などにめずらしがられ、しょっちゅうからかわれた。
 
 とにかく沈んでいる男だった。それでいて、エヘラエヘラ笑うときも、しばしばあったのである。だからよけい、皆がやいのやいの、はやし立てたのかも知れぬ。

 「暗い。くそ真面目すぎる。そんなに生活を享楽しないのは、じつに不健康だ。何か信仰でもしているのか? 読書もいいけど、人と話もしなけりゃあ、いけない。無口じゃ、だめだ。魅力的な無口というのもあるが、お前のはたぶん、拒絶したがる高慢ちきゆえの物言わずなのだ」

 ふだんのおちゃらけの合間、彼らの一人は、わりと真剣に吐いた。

 アルバイトを終えたら、行く先がわからず、途方に暮れた。もいちど美術系大学に入りなおそうかという考えもすこしあった。芸術でめしを食っていけるなどと、宗教のように信じてもいたのだが、それよりもまず今日明日のたつきさえ定まってはなかった。

 中学のころからの、たった一人の友人に、その夏、久しぶりに会った。高卒で就職してすぐに家族もろとも郊外へ引っ越した奴で、ふつうに恋人ができ、ふつうにくるまを買い、ふつうに給料が少し足りない、などと話しながら、なつかしい下町の景色を巡った。彼は帰りぎわに、こう言った。

 「自殺、するなよ」

そしてふつうの夕暮れに溶けていった。

 

 雨が止んだ直後、原付バイクで奈良の山をめざして出発した。大水害のあった地域の山川を、わざと夜中に越える。未熟なやけくその異端に扮して時をつぶした。

 午後二時に出発し、ようやく奈良盆地の奥の湿った山地に入りかけたころは、もはや日没間近であった。疲労も重なり、すでに帰りたくさえなっていた。伊勢平野まで続く国道何号線かを見つけるのに手まどり、人にたずね、行ったり来たり、やっと桜井という所にて軌道を修正したとき、あたりは青黒かった。

  気がつくと私は、山奥の果てしない、陰うつ極まるけもの道をのろくさと登っていた。大雨がきざんだ幅広い深い溝が、大蛇の群れのように、道を縦横に這いまわっている。暗闇はまず私に、前輪付近の地面を凝視することを強いる。悪戦苦闘だった。
 駄馬は、甲高くいななきいななき徐々に山坂を登っていく。下半身がぬるい泥水でべっとりしている。たぶんげらげら笑いながら運転しているのであろう。たいそう愉快な気分なのだ。やぶれかぶれ、なんでもかんでも投げ散らしぶちこわしたくなってそれを実行しているさいちゅうの、あれであった。

 突如前方に、案内標識の板らしい何かが、ちらと白く映った。近づくと細いロープが板の両端から張ってあるのも見えた。車を止め、エンジンを切ったが、このとき初めて、森林のとほうもない静寂を体ごと感じた。おりて懐中電灯を出し、板のほうを照らしつつ近づいていった。ゆがんだ稚拙な文字を判読した。

  

  『 もど、れあ、ぶな、い 』 

   

   戻れ、危ない。

 

 むこうには巨大な穴があった。道が車一台ぶんほどごっそりと崖下へ陥没していた。山はだに沿って地面が細くたよりなく残っていた。

 私はぞっとしながら、通れないことはない、ここさえ越えて行ければと考えた。危ないのはここだけらしい。いや、ここさえ危険なのかどうか? 

 子供の字まがいの、もどれあぶない、の板札と、穴のあちら側にも張ってあるロープと案内板に目をやった。底なしに見える闇の先には、あんがい抜け道があるかもしれない。

 崩れかけの路肩を渡りきるさい、車体の一部がロープに掛かり、板もろとも散らばったが、なんなく越えた。道は狭く悪くなり、気は高ぶった。ところが興ざめの情けない出来事が、突発した。

 ひとつ深い溝を越えたら、後輪の辺でガラガラ鳴るので、石でもからんだかと思ったせつな、エンジンがぷすんと切れた。とたん、車体がつんのめって速度が落ちた。体勢を保ちながらずっこけるのを防いだ。何事が起こったのか探るために降りてみたが、目が見えない。

 闇である。荷をまさぐり、懐中電灯を抜き出し、後輪を照らす。チェーンがはずれている。軸のところが変なゆがみ方をしている。故障したらしい。重傷か軽傷か正確に判断する冷静さは、すでに四方の暗黒に吸い取られている。こんなときはやたら胸さわぎがして、足がすくむものであろう。生死にさえ関わる事態だと思い込む。

 これはとうとうたいへんなことになった、と大仰に慌てるのだ。

――さていったい俺はどうすればよいか、先へ行くべきか戻るべきか。この茂みに寝る? 無茶言うな。それはやめておこう。ともかく、外れたチェーンをかけてみるべきだ。

 やるとすぐできた。車輪も何とかまわるようになった。が、どれくらい走ってくれるだろうか。依然ぐにゃりと軸の辺がゆがんでいるみたいだ。

 見上げたら、夜空いっぱいの星である。そうとう高いところまで登ってきたらしい。なぜなら周囲の山のまっくろな稜線が、一様に眼下にうずくまっているので。背後からは巨大な顔が、夜空よりもいっそう暗く沈鬱な表情で私を見下ろしていた。登るべきであったところ
――今立っている山の頂だった。

 やっと決心した。もう、やめよう。道はまだまだ、くねくねとあの恐ろしげな黒闇の空まで伸びているのだ。しかしこれが国道なのか。わけがわからない。自分はどうしてぽつねんとこんな鄙びた山路に立っているのだろう。
――すなわち愕然としたわけだ。

 さて、降りよう。





 

2 奇怪なよる



  私は怖気づきながらも避難のすべを考えた。付近の集落まではそう遠くないはずだし、とうぜん上り坂より下り坂を選んだ。

 走り出すと再び体はおどりあがり、もう、こけないようにすることしか頭にはなくなった。幾ばくも走らないうちに、忌まわしい鎖は外れてからまり、たちまち後輪はロックされてスリップし、エンジンがぷすっぷすっと断続的の吐息とともに切れる。そのつど悪路へ下車しなければならなかった。

 何回か繰り返してもまだ、やっとあの陥没のあたりだった。板もロープもたるんで地面に落ちていたから、直前になるまで現場を見て取れず、ほぼ制動なしにわずかに残った道端部分を通過した。

――勢いに乗り、かなり大きな石やら枝やらを踏みにじり撥ねとばしてバランスをくずし、転倒しそうになったが、もちこたえた。かわりに奈落の崖底へ落ちていったのは板切れやごろんとした岩らであった。すると闇に言葉が走った。

 

 自殺スルナヨ!

 

 「自分があの石なら、あいつは予言者になったのだ」

 ようやく悪路を抜け、舗装道路に入る。まだまだ山奥は山奥で、周囲には微かな一点の灯すらない。黒く光る村道にさえ人里を感じる。
 
 やや速度を上げはじめたとき、ヘッドライトが数十メートル前方に直立する物体を、白くチラチラと瞬くように照らした。それは確かに坂を降りて行く人のかたちであった。あるていど近づくと、ナマ血の巡った人間の動きなのは全く疑えなくなった。事実がはっきりすればするほど、その気配に対して丸太か蝋人形ばかりの冷温も感じられなくなった。  

――誰かが、こんなまっくらな処を歩いている。

 丸坊主の後頭部をてらてら光らせ、林道沿いをひとり降りて行く。たしかに汗みずくの大柄な少年で、ノッソリと、そして生気がない。なぜか緊張と親しみをどうじに覚えた。追い越すときにさえ、こちらを見ようとしない。とある気持ちにかられ、その顔貌を一瞥したら、たちまち身辺の謎のかずかずが溶け落ちた。
 なぜ自分は、大水害ちょくご、人知れぬような夜の山奥にて、いたんだ原付バイクを疾駆させなければならないか。なぜ他人の目が恐ろしいのか。なぜ無計画に大学へ入ってしまったか。なぜ、自殺するなと助言され、そしてそれが崖道の陥没へ落ちかけたとき浮かんだのか。
 ぜんぶ解明した。

 この無表情な緘黙の少年が「私」だったからである。陰気なにきび面は、昔の私だった。ほら今、自分ににらまれた。つまり深刻な自我崩壊のなせるわざに他ならぬ。おのれの分身に遭遇しても、あまり驚かなかったことも、その証左だった。
 彼の顔が明白になって以後は、恐怖よりむしろ親近感を強くおぼえた。

 

 と、またチェーンがからまり、二輪車は僻村の闇なかに止まった。遠くまで降りてきたらしい。もうさして不安はないが、異質の危惧が起こり、胸さわぎを覚えた。

 少年は、運命的に強烈な個性を備えたため、きっと俗人以上に寂しいのに違いない。皆からはんぱに重んじられ、あるいは厭われ、ある時は縛られ、どこかへ逃げたくて逃げたくて、しかたなかったに違いない。当たらず障らずのまんま長じたことを特に憎悪した。飼い殺しのような仕打ちには弱々しい苦笑で反抗するほかなかった。

 何年もひとり、部屋に閉じ込もり、唯一絶対の個性とやらを凝視した。夜な夜な、呪いの音楽をギターで弾き語り、貧しい土壁に叫びたてた。いかさまの魔人だらけの電信媒体にひたり、おぞましい我を忘れようとした。親や友や師と呼べる生きものを、どうしても平常には識別できぬ心持ちに苛まれながら、取り繕いの上っ面の舌節をもちいて、日々を塗りごまかした。

 ぼんやりと、馴染みがひとりいた。彼は今から何年か後に、その日暮らしでふらつきながら、孤高気取りの泥濘に溺れかけている異常気象の夏、社会のふつうの人員となった日常を謳歌している親友から、自死はいけない、と忠言され、のど首を絞め上げられた気分になるのだろう。

 ――と、そこまでヌルヌル巡らしたときに、がぜん一点、不吉なひらめきが、と胸を突いた。応急修繕し終わると、後方の黒い山間に向かい、まなこを開いた。

 

 「おい、どうして少年はうなだれていたのだ? いったいどのくらい離れてしまったのだろう。戻ることはできぬ。このポンコツは人命救助の役にすらたたない。ともかく一本道だから、いずれはここまで来るはずだ。途中、はやまって崖下へ飛び込んでしまいやがったら? あの顔はたしかに、爆発寸前のもの特有の表情だった」

 

 何時だろう、と思った。山へ入ってからは時刻が気にならなかった。驚いたことに、八時過ぎである。もっと驚いたのは、いま驚いたことだ。そんな必要などまったくなかった。

 数分間が、過ぎた。

 人間などどこからも現れそうになかった。とつぜん誰か、オオイと叫んだ。私が咆哮したのだった。自分で声を上げたのに、森の向こうから聞こえた。
 もう一度、呼んだ。死ぬな、と叫んでみたく思ったが出なかった。幾度も幾度もオオイオオイとばかり呼んでみた。悲鳴みたいにわめいた。

 もしこのとき実際に答えがあったり、「彼」が目前にひょっくり現れでもしたら、私の人格は一度に、きれいさっぱりと、砕け散ってくれたかもしれない。少年の私は、どこかでかたくなに押し黙っていた。じっさいそれは当然すぎるくらい当然だった。

 

 「死にたけりゃ死ぬことだ、人命救助の誉れとかはいらない。何もかも甘ったれてやがる。疲れた。消え落ちればよい。呼んでも来ないなんて、やっぱり鈍重な坊主頭だ、昔の俺は。下山して生きてやる、おまえの命をちょうだいしたのだから! もう、俺は降りる」

 

 私は、置いてきぼりの痛快な悪心をいだき、ふたたびバイクにまたがった。やがてぼやけた頭は、しばらく異常が起こらない滑らかな走行とリズミカルな排気音によってじょじょに洗浄された。

 

 「死にたくないなら、いったい何のために、おれはほっつき歩いているのだろう」

 

 舗装道に入るとチェーンは外れなかった。人家の灯が、遠く近く、まばらに見え始めた。 

 貧相な木造建ての民宿があり、玄関らしい明るみの近くで何やら立ち話をしている二、三人の若い女性の浴衣姿を一瞥し、赤い鉄橋を越えたら、急に人家が多くなった。まだ閉めていない商店があったのでそこで止めた。
 
 入ると菓子パンやら漬物やら乾物やらが雑然と起き並べてあって、それに混ざり合った恰好と色ぐあいで、中年女が低く椅子に腰掛けていた。私は、きょろきょろした。まぶしかったせいもある。おそらくむこうも、あぜんとしてすぐには声が出なかったのだ。
 自らの汚泥にまみれた風体など忘却しながら、

 「ここがどこだ、かわからん者ですが、オートバイ屋さんは、この近くにあるで、しょか」

 ろれつがまわらなかった。

 「オートバイが、こけ、こわれました」

 あわてている。次の言葉がなかなか出てこない。相手が立ち上がり、くらい笑みを浮かべながら何やらしゃべりだしたのを認めたとき、半泣きになったほど感動した。が、たちまちまた自分は、変ちくりんになったと思った。

 「さっきの人やね」

 山道の遭遇ほどに、ぎょっとし、相手をにらみつけた。似たところもあった。

 「夕方、パンを買ってくれたでしょう。危ないと思うてたら、やっぱり。オートバイ屋さんはあるけど、遠いし、たぶんもう閉もうてるよ。けがは?」

 と言う。

 確かに、ここへ寄ったのである。夜になって景色が一変したのと、夕方はこんな女なんて目につかなかったせいとで、ぜんぜん思い出せなかった。だが驚いている場合じゃない。すぐ行こう。閉まっていたら、あけてもらう。だめなら、しょうがない、道端で寝て、すべて明日にしよう。

 いつしか私は落ち着き、安堵さえ感じていた。知らず知らず、ふたたび同じ店へ難を逃れたこと――いちどは食料確保のため――の影響は大きかった。

 しかしほんとうに、この行動は、「知らずに」だったのだろうか。

 
 店を出た直後、故障が悪化した。一キロも走ってはいない。押せば動くけれど、発進するとすぐにチェーンが外れてしまう。しばらく歩くことにした。

 じっさい手押しで行くと予想外な労力が必要であった。原付自転車とて、車体は80キロ近いし、荷物もこんもりと積んである。林道の起伏も激しかった。適当な場所を見つけしだい寝るしかない。

 一時間近くかかってようやく、バスの停留所にたどり着いた。待合の電灯はすでに消されていて、明るみといえば脇に突っ立っている缶ジュース販売機の四角い顔くらいである。ベンチへ腰掛け、むざんなわが身の、おもて裏をしらべた。
 
 荷をほどいてみると「小倉あん」はぺしゃんこにつぶれていた。かまわず食らいつく。満腹感にひたるうち眠気にとらわれ、上体を荷物にもたせかけながらまどろんでいた。
 おびただしい数の羽虫が、私の顔面や首や腕やらを勝手ほうだいに蹂躙しているので目が覚めた。

 虫除けスプレーで地肌を武装したあと、暑苦しい寝袋に入った。右ひじと右膝が痛かった。




 

3 きりぎしと石の日

 
 
朝だとわかるやいなや、羞恥に似た嫌悪感がつま先まで広がり、全身が麻痺したようにしばらくは動けなかった。半身を起こし、周囲を見ると原因がわかった。
 バスを待つ客が数人いて、こちらをチラチラのぞいていた。私の姿はかなり不潔だった。早いこと立ち退きたかった。それにしても、この吐き気はどうだ。生肉の臭気がする。
 峰には雲がひくく迫り、川べりの道端の人はよそよそしかった。

 小一時間、手押しで下り、モーターサイクル店に着いた。店先で、そこの主人らしいずんぐりしたおやじが、黒ずんだ鉄管を太ももに挟んでいじくっていた。声をかけても返事しない。

 
こんどは強めに、すみません、と呼んでみた。

 
 ややあってこちらを向いたが、墓穴から這い出てきたモンスターみたいな面をしている。笑顔だけは返せそうな気がした。やってみてとても無理だとわかった。
 
 そして言語機能を働かせ、昨夜以来身辺に起こったほとんどの出来事を、いたずらっ子が泣きじゃくりながら大人にする罪業の告白と同じ気分――絶望と救いの崖っぷちに立つ気分でもって、ちぎりちぎり伝達した。
 相手はただの熊といってもよく、ぷいと裏口かどこかへ消えてしまい、長いあいだ戻ってこなかった。

 
「明日になるが、ええか」

 
店の外から唸り声がした。

 行ってみると、バイクはすでに、かなり破壊されていたが、私は面食らいながら、頭のてっぺんからハーイと返答した。なおりさえすればいいのである。けっきょく次の日までその辺りに留まらなければいけなくなった。
 
 八方山林で、ぽつりぽつりのプレハブ商店や民家、材木工場、ひなびた神社、バス停。集落をねじり這う河渕は、どこもどす黒いよどみばかりだった。極端に深いのでも流れが激しいのでもないが、ただただ、陰鬱に感じたのだ。

 ところが山を見上げるときにだけ、気持ちが高揚した。朝からつきまとう底気味悪さは、山道を登ろうと考えるとましになる。それは旅に出る前とはまったく逆への手招きといってもよく、つまりちょこざいな「半人前巡礼」への誘いではなく、のっぴきならない、冷厳な生死に、しんじつ臨む悲鳴に似た呼び子なのだ。

 決するとすぐ、貴重品やライトなどをバッグに入れてショルダーベルトをつけ、バイクは店主にあずけ、昼過ぎに登山道らしき細道へ入っていった。

 登るにつれて上空の雲は切れ、うすく晴れてきたが、道しるべはどれも不明瞭で、日没前には果たして、自分の位置がかいもくわからなくなっていた。かまわずどしどし進んだ。その山塊も、大雨で崖崩れがひんぴんと起こったらしく、道がほとんど土砂に埋まったままの所もあちこちにあった。
 奥へ来るほどひどく、しだいに道が道の体をなさなくなってきた。けれどますます気ははやり、あともどりが出来なくなることをむしろ望み、行けばよい行けばよい、とばかり念ぜられるのである。

 と、またしても多量の土砂と倒木が進路をふさいだ。これ以上はどうにも進めない。溜め息をつき四方をうかがうと、すでに夕闇一色、またたくうちに景色は落ち沈んでゆく。

 

 「このうら寂しい山奥の、変哲もない土砂くずれの現場が、今朝から気にしていた局所そのもの? 」

 

 辺りの深い茂みを見まわした。どうやら勘ちがいらしかった。もう降りたくなっていた。

 濡れた土砂の中へ、足を突き刺し、よたついた。もどるより進むほうが、どうせなら元気が出る、と考えた。岩を踏んだ感触がしたので、足場にしようと重心をかけたらぼろりと折れた。もんどりうって、しりもちをついた。土へ差し込んだ手にまるこい石があたった。持ち上げたら、泥まみれの石ぼとけの頭が現れた。
 わしづかみながら脇の平坦な地面へ降りた。

 すぐに胴体の発掘作業にとりかかった。
 落ちていた板切れをシャベルにして、あちこち掘ってみたが、容易には見つからなかった。ひょっとして首をへし折ったと感じたのは錯覚で、ちいさな仏頭だけがどこからか運ばれてきたのかもしれない。
 懐中電灯で崖の上を照らす。樹木どもの奇態なおどりが、くっきり浮かび、揺らぐ。無数の樹影がのしかかる。
 
 登る勇気はなかった。もいちど掘ってみようと板のシャベルをひろった。しかしどうしてこんな場所に、板切れが落ちていたのか。光を当てたらぎょっとなった。

 

 『 ――れあ、ぶな、い 』

 

 やはりおれは崩壊したのか。

 

 おののき、それが静まったところで考えた。

 
 「いや、あぶないどころか、助かったらしい。」

 

 きのうと同じ崖くずれの現場へ、きょうも巡り着いてしまったのだ。

 もどり道はすぐ上にある。光明の事実である。板切れをバッグにくくり、ほとけの頭は泥の中にうっちゃってきた。手さぐり足さぐりでで崖をよじのぼるのは予想外に難儀だった。もちろん真っ暗だ。

 現場は元のままだった。夜間そこを通行する車両などはかならず崖下へ転落するようにしかけられていた。私がきのうそうしたのである。ロープは飛び散り、板の標識は、二枚あったうちの一枚が道なりに五、六メートル下がったところへ倒れていた。あとは欠けらしかなかった。ほかのは下へ落ちたらしい。

 暗いので手まどったけれども、どうにか人を死の入口数歩手前で立ち止まらせるくらいには復元できた。ひと息つき、このまま道を下りていこうと立ったとき、へんな形状の石を発見した。今そこへ尻をのせていた。石仏の横たわる胴体だった。
 驚いたのもつかのま、ほどなく気分が高じ、喜悦した。ほらほら煩悩を解脱した、との無理な悟りをつくろった。なぜなら首をへし折ったのは、やっぱり自分だったからだ。

 バイクで刎ね飛ばした石は――私のかわりに転げ落ちていった石は、哀れな御仏の頭であったのだ。

 
 もう一度、崖を降りた。

 
 路上まで登りきろうと、崖肌のしげみの途中でモゾモゾしていたところ、山奥には似つかわしくない、尾を引いた金切り音が聞こえてきた。頭上すぐ――穴のそば――まで接近すると静かになった。二輪車だった。
 通せん坊をされた「彼」は、茫然と立ちすくんでいるのであろう。

 

 「ゆうべと同じ目に会っていやがる。だがおまえは間一髪で死なずにすんだ」

 

 笑い声をあげてしまいそうになったが、がまんした。バイクはすぐさま、さっき私が修復した現場をけちらし、引きずり、踏みつぶし、手かげんなく突破し、そのまま坂上へ去っていった。破壊音とともに板切れや砂利が頭に降ってきたので、体をそらしたら、落ちそうになった。

 路面へ出てきて、動悸が静まると、虫の音がそこらじゅうに聞こえた。無残な現場を照らす。怒りは、ややあって静まった。再びきちんと修復する気力も体力も失せていた。
 石仏の胴をかたわらの木にもたせ掛け、それへ頭をのせると、そこを離れた。明日また来ればいい、と考えてもいた。

 うなだれ、とぼとぼ、ときには早足で、暗闇を降りて行く。充実した痛快な気分と、とげとげしい虚ろな気分が去来し、胸をかきまわした。今朝からのこだわりが今だどこかに引っかかっている感じだった。
 
 すると後方から、バリバリいう不快音を吐き散らしながら、わが不安の犯人が坂を下りてきた。ふりかえらなかったが、排気音の悲鳴と貧弱な光線により、奴だとすぐにわかった。

 たちまち私を追い越す。首を伸ばしてこちらをのぞき込んだので顔が見えたけれども、つよく憤怒をもよおした。何の特徴もない陳腐な容貌で、それも顔一面に、いや全身全霊、嘘くさい悲痛やら甘ったれた苦悩のメッキをぬりたくっているだけに、なおさら鼻についた。
 少し先でくにゃくにゃと転倒しそうになっていた。

 そのうち見えなくなったが、しばらくすると、かなり遠方より、オオイと聞こえた。それから何回も何回も、しつこく呼ぶのだ。

 

 「石仏の首は、また泥の底へ落ちた」

 

 気づいた。

 

 「はね飛ばしやがった」

 

 明日だ明日だ、と念じながら、急いで下って行く。予想より早く、旅館を通りすぎ、橋を渡ったらたちまち民家が多くなった。夜も遅く、深閑とした雰囲気である。

 ――が、まだ閉店していない店が一軒あった。

 当たり前のような顔をして入っていった。すると、なんかほっとした。やはり店の女がこちらを向いて腰掛けていて、待ちあぐんでいたみたいな表情でもってむかえられたから。微笑はこう洩らした。

 「どこへ行ってたの」

 伝えるべきことが余りにも多い気がして、胸がつまった。こらえたとたん、凶暴な、野獣の咆哮に似た怒声がほとばしり出た。たじろぐと、こんどは嗚咽である。喉がひゅうひゅう鳴るばかりで、しゃべることはできなかった。たった一言を発するのでさえ、とんでもなく困難なことに思われた。号泣するしかないらしい。

 

 「これは、誰がしかの鉄槌だ。しかし、おかしいぞ」

 

 全身、だるくなった。もう眠りの中である。

 

 「いつおれは眠ったのか」

 

 とはっきり疑ったとき、目が覚めていた。右ひじと右膝の痛みとともに。




 

 

4 無恥未熟のあさ




  長く生々しい無気味な夢からやっと私は逃れ出た。

 我に返ると、川沿いの停留場のベンチへ横になっていた。空も晴れ上がっているし、バスを待つらしい数人の男女も、なごやかな談笑の最中で、そこには田舎特有の大らかな空気が醸されていた。妙齢の女性もいたが、おかまいなしに、私は泥まみれの衣服を着替えると、出発する準備にとりかかった。
 準備といっても、荷をくくり、ジュースを買って飲んだだけである。バイクにまたがり、すぐに降りた。そうして、のろくさと車を押して歩きだした。

 三十分も行かぬところの店に無礼な熊店主がいるかと思ったら、出てきたのは若い無口な男で、バイクをしばらくながめるとおもむろに修理しはじめた。私は事の成り行きを、不明瞭にむにゃむにゃと吐いていた。

説明の中途で、もう彼は工具を片づけるのである。

 
 「できましたよ」

 
 さとすみたいに言う。

 
 「できましたか」


 私は惑乱した。

 
 「これいくらで」

 
 代金をたずねたつもりであった。答えは夢より不可解だった。

 
 「なんぼ、でもいい」

 
 意味を問う意味の感嘆詞を
――おや、あ、え、等――三つほど発し、承知し、ズボンのポケットを探って、たまっていた小銭をだしてみたが、十円玉ばかりである。数えたら十八個あった。全財産はこれだけというのじゃない。あとはお札なので。

 
 「こまかいのがないのですが」

 
 「そんならそれおくれ」

 
 百八十円のことであろうか。考えることにした。訊いたら正しかった。

 渡すと私はニヤニヤしながら立ち去った。思いがけない他人の厚意にあずかったときに、そうする習わしがあった。私こそがひとの獣にほかならなかった。

 例の現場へ急いだ。昨夜(おとといではない)あれほど情けないみじめで滑稽な走り方をしたバイクは、今は悠然と疾駆する。ネジが一、二ヵ所脱落していただけという事実はのちにわかった。

 晴天の下の林道走行は、原付自転車にしろ快く、涼しかった。腹が、減った。すぐにあの店へ着く。

 今日は休業らしく、戸に手をかけても、みしみしいうだけで開かなかった。しかたなく、少し先へ行ったところの旅館の隣にある狭い食堂へ入った。

 開けっ放しの玄関の方を向いて玉子丼を食べていたら、かんかん照りの中、上背のある中高生風の少年が、縄で巻いた長短の棒切れをかつぎながらノシノシと、私のいる食堂の前を通りすぎた。

 彼には、まえに会っていた。

 それは菓子パンを買った店――さっきも入ろうとした例の店で、そのとき女性はいなくて、ほっぺたの赤い坊主頭の少年が一人、表を向いて突っ立っていた。もがもがと何か声を出し、へんに首を曲げると、困惑したような恥じらうような顔をして、またぐうぐう言うのである。
 
 どのパンでも良かったはずなのに、とくべつの熱心さでもってしゃがんで探している様子を見て、私もつい、これじゃない、それじゃないと声をかけてしまった。よけい時間はかかった。

 しっかりした者を置かないと、客にめいわくだし店も不用心じゃないか、といらだちをおぼえた。百円玉は一枚しかなかったので、五百円札を出し、渡すと、おつりを受け取らぬまま外へ出た。店の前で立ち食いし、腹がふくれると、いたく熱心な少年のふるまいは、心中から消えかけていた。

 出し抜けに顔のはたへ腕が伸びてきたので驚いた。ごつい手に十円玉をたくさんのせて、まっすぐに差し出しているのである(これが先ほどの修理代の全部になった。残りの百円玉はジュース代で)。

 ジーパンの前ポケットへ入れるとすぐ、私はその場を離れた。夢中で峠をめざしたのである。

 今ふたたび少年を見て、昨夜、とぼとぼ歩いていたもう一人の私は? 

 違いない、とひらめいた。母の笑みが浮かぶ。

 
 「親と、子か」

 
 石仏の泥の顔が、眼前に浮かぶ。

 食堂を出てすぐに、ちいさな祠をはさんだY字の三叉路があったが、おそらく昨日はここで錯誤したらしい。昼中でもわからないほどで、道しるべもあやふやな指示しかしていない。

 と、昨夜通ったほうの道を、大きな木箱をしょった背の低い女がゆっくり降りてきた。

 近くまでくると立ち止まり、

 
 「やっぱり行くの」

 
 母親であった。

 
 「伊勢へ行くにはこっちですね」

 
 まだ知らぬほうの道を指したら、

 
 「近そうだけど遠いよ」

 
 と言って、歩いていった。たくましい足取りであった。

 姿が見えなくなるとすぐ、本道へは行かず、ゆうべの道を登り始めた。

 未舗装道路へ入って、がぜん、うら寂しくなった。下半身びしょびしょになりながら、

 

 「が、これも苦難の巡礼にふさわしい。きょうは洗濯する場所を見つけるべきだ」

 

 陥没現場まで来た。胴も頭もなった。けれどすでに新しくロープが頑丈に張られてあった。さらに意外なのは、藪の下が切り岸といってもいいくらいの鋭い高さと、崖くずれのひどさである。

 

 「暗いからわからなかった。俺とあいつはここを登ったのだ。へたしたら死んでいた。いや、もはや死んでいるのかも知れない」

 

 まっさおな天上に、光りかがやく一羽の鳥が、深林を睥睨するように、ゆうゆうと舞っていた。

 

 「まだ、ねぼけている。それは夢じゃないか。みんなでたらめだ。石仏も、板の破片も、疲労が連れ込んだ悪鬼の空言だ。夜道で人間に遭遇したせいもある」

 

 標識も新しいのが立ててあった。太くまっかな文字が目に入った。

 

 『 首が落ちて、ありません 』

 

 はっきりと、間違った。

 

 『 道が落ちて、ありません 』

 

 「この声は、仏性そのものではないのか。あんがいな奸策を弄しやがった。昨晩の俺なら、もっと凶悪な言葉を書きなぐったはずだ」

 

 私は急いで踵を返し、そそくさと山を降り、帰路についた。道すがら、あれこれ考えているうち、或る光景が心に鮮明に浮かび、今夜こそは、それにまつわるさわやかな夢のつづきを見たいという欲求が起こってきた。

 だがその晩どころか、それ以後もずっと、願いはかなえられなかった。

 
(了)


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