太陽と月のエチュード|夏ピリカグランプリ応募作|
『ハルのピアノが大好きよ。私はいつだってあなたの一番のファンなんだから』
鏡の中でハルに顔を寄せ、お母さんは笑った。肩を抱いてくれた手のひらが、じんわりと温かかった。
念願の音楽大学に合格した日、お母さんは飲酒運転の車にはねられて死んだ。
鏡に映った自分の泣き顔を、ハルは力任せに叩き割った。
以来、ハルのピアノから感情が消えた。
音大生となったハルは、機械になったようにピアノを弾いた。無表情で次々と難曲を弾きこなす姿は、他の学生たちを遠ざけた。
試験が迫った日の夜、ハルはいつものように割れた鏡の前で身支度を済ませ、大学の練習室へと向かった。練習は夜中にすると決めている。
明かりが漏れていた。先客だ。ため息をつき、扉を開ける。
ぶわあっと、音と共に花びらが舞い散ったような感覚。
その人は、ハルに全く気付かず、歌うようにピアノを弾いていた。
リストの『愛の夢』だった。
ふと彼の手が止まり、明るい褐色の瞳がハルをとらえる。
「清沢ハルさん?」
「……」
「遠野律。同じピアノ科」
「なんで私のこと……」
「清沢さん、超絶技巧で有名だから」
律は無邪気な子供のように、自分の隣のピアノを指差した。
「弾いて!」
ハルは仕方なくベートーヴェンのピアノソナタ『月光』の第三楽章を弾きはじめた。試験の課題曲だ。目まぐるしい速さで正確に鍵盤を押えるハルの両手を見ながら、律は何か考えを巡らせているようだった。
「同じ月でもさ、俺、こっちのほうが好き」
律はドビュッシーの『月の光』の冒頭部分を弾いた。月が水面に溶けるような、不思議な音色だった。
「聴かせて。清沢さんの『月の光』」
吸い込まれるように、ハルは両手を鍵盤に乗せた。
一呼吸おいて、ハルの音に重ねて律が弾きはじめた。月の光の中、静かにダンスをするように、二人でゆっくりと弾き進める。
『静寂にも音はあるのよ、ハル』
ふと優しい記憶が蘇る。
次の瞬間、心臓が激しく脈打った。
律の音は、記憶の海深くに沈めたはずの、お母さんのピアノだった。
「やめて! そんな音で弾かないで!」
鍵盤の上にぽたぽたと落ちる大粒の涙が、自分のものではないような気がした。
「ピアノ、やめる」
律の大きな手がハルの手首をそっとつかんだ。
暗闇の中、導かれるままに階段を上る。
屋上の扉を開けると、まっさらな朝日が差し込み、目が眩んだ。
月が太陽へ、世界を託していたのだ。
「清沢さんの大切な人はさ、清沢さんのピアノが大好きだったんだね」
驚いて見開いたハルの瞳を、律がまっすぐに見つめた。
「ピアノ、やめないで」
律の瞳は、きらきらと輝く朝日を宿していた。
割れた鏡の欠片は、あの日から心の奥深くに刺さったままだ。
その欠片が今、なぜかとても懐かしくて、愛おしくて、温かい。
『ハルのピアノが大好きよ』
節くれだった両手を見つめた。
「遠野くん」
「『愛の夢』、私にも弾けるかな」
<終>(1187文字)
****************
今回の「かがみ」というテーマから、「自分を映して、前を向く」というイメージを連想し、本作に至りました。
ピアノが、音楽が大好きです。
「音楽を言葉で表すこと」が大好きです。
この物語を、「夏ピリカグランプリ」に応募させていただきます。
運営の皆様に深く感謝申し上げます。
このようなイベントがあると心が弾みます。
とてもいい刺激をいただけます。
素敵な企画をありがとうございました。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?