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「水族館」からの素敵な招待状

 夜中にインターホンが鳴った。ドアを開けると、そこには大きなシロクマが立っている。頭には、駅員さんが被るような黒い帽子。
僕が何も言えず固まっていると、
「おめでとうございます。厳正な抽選の結果、あなたが1等に選ばれました。これからツアーにご招待させていただきます」
とシロクマが流暢に喋った。その姿はまるで、高級ホテルの支配人のような、洗練された上品さを持っていて、僕は何のことかさっぱり分からなかったが、なんとなく断るのが憚られた。
 シロクマの言われるがままについていきながら、夜とはいえこの光景を見られたら何かと思われるなとぼんやり思った。道路に出ると、自分が住んでいるオンボロアパートには似つかわしくないほどの高級そうな黒い車が停まっていた。
「こちらへどうぞ」
 シロクマは後部座席のドアを開け、僕が座るとシロクマはそのドアを丁寧に閉めてから助手席に乗り込んだ。運転席ではクマノミが泳いでいる。シロクマがシートベルトをすると車はひとりでに発進し、ハンドルは自動的に動いていて、クマノも運転席を自由に泳いでいるので、そうかここは水中のような場所なんだなと思った。

 今日は月が出ておらず、星の白い光が降る静かな夜だった。
 住宅街を抜け、真っ暗な山道をしばらく進むと大きな白い建物が現れた。車はひとりでに停まり、シロクマはここで降りてください、と後部座席のドアを開けてくれた。
「そちらの入り口からお入りになり、そのまま細い廊下をまっすぐ進んでください」
シロクマはそう言った。
これが大きい建物だということはかろうじて分かるものの、星の光以外明かりが無いのと、建物のすぐ近くに車が停まったこともあり、この建物の奥行きはどうなっているのかとか、外装はどうなっているのかとか、建物の詳細はほとんど分からない。少なくとも、見える範囲のところは真っ白く塗られているようだった。
入り口は自動ドアで、入口以外は窓も何もない真っ白の壁だったため、寂しい印象を受けた。中の様子を伺おうとしても、中にも照明が無いのか真っ暗でどうなっているのかは全く分からなかった。
ここからはお一人でどうぞ、とシロクマが言うので、言われるがままに建物の中に入った。

中は照明何一つない暗い廊下が続いていたが、先に小さな青い光が見えたのでなんとか躓かずに歩くことはできた。この廊下は、幅が2m、高さが3mくらいの細長く、下はマットタイルが敷き詰められていることだけは分かった。
薄青い光を頼りに進んでいくと、大きな広間に出た。そこで僕は、青い光の正体がその水槽から出ているそれだと分かった。それは僕が今まで見たことがないほど大きく、少しだけ恐怖を感じるほどだった。水槽に近寄って底を見下ろしても、あまりにも広い水槽のようで、底が見えなかった。

僕は少し離れた位置に立ち、何も現れる気配がない、ただ青白い光を放っている水槽をしばらく見つめていた。不毛な時間のようにも思うかもしれないが、僕にはそれがとても貴重な時間のように思えて、ここを離れたくないような気もしていた。
何か気配を感じ、水槽に近寄ると左下からゆっくりと鯨が通った。その時、僕と鯨は確かに目があって、その鯨は僕に微笑みかけたような気がした。優雅に泳ぎ去っていく鯨をぼんやり見つめていた。
ふと後ろをを振り返るとシロイルカが泳ぐように浮いていて自分を見ていた。そうか、ここも水中のような場所なんだと僕は思った。
「気に入っていただけたかしら、それだと良いのだけれど。次はあちらに進んでいただいて良いかしら」
そのシロイルカが顔を右に向け、僕もその視線の先に目を向けると、この大きな部屋の右側面にまた小さな入り口がある。
入口といってもこの建物に入った時のような自動ドアはなく、トンネルのような入り口だった。あの入り口は、僕がこの部屋に入った時からあったのだろうか、と思ったが僕は入った瞬間にこの大きな水槽に気を取られていたわけだから、見逃していてもおかしくはないなと思った。シロイルカに見送られながら、僕はこの広間を後にし、その入り口に足を踏み入れた。

そこは水中トンネルで、確かにガラスのようなもので守られているのだけれど、継ぎ目のようなものが一才なく、目を凝らせばそれがトンネルだと分かるのだけれど、あまりに僕のいる場所と外の世界が同化していて、僕がいるところと外の世界の境界線があやふやになっているようで自分が今どこを進んでいるのか少し不安になったりもした。緩やかな坂を昇ったり降りたり、また螺旋状になっている坂をに昇ったり降りたりもした。それを何度か繰り返したが、不思議と疲れはしなかった。
魚は見えなかったが、時折2匹イルカが現れ、歓迎してくれていたようだった。やってくる度に、ピィ、ピィと鳴いていた。この水中トンネルの何度目かの下りの坂道で、右の視界に砂浜と岩肌が現れ、イソギンチャクと珊瑚が見えた。そのイソギンチャクの中には数匹のクマノミもいて、車を運転してくれたクマノミも、ここにいるのだろうかと思った。いてほしいな、とも。青白い光の中で、彼らはより一層幻想的に見えた。

この長い水中トンネルと抜けた先はまた広間だった。しかし、さっきより左右に長細いつくりになっていて、天井は低かった。大体3mくらいだろうか、少しだけ圧迫感を感じた。さっきと同じなのは目の前には水槽が広がっていることだ。
その水槽の前に、肌も髪もまつ毛も眉毛も、服さえ白い女性が立っていた。白いコートと白いロングスカート。
その女性は容姿端麗で、少し物悲しそうに佇んでいた。僕はしばらく彼女に見惚れていて、それに気付いた彼女は、
「私に恋をしたのかしら」
彼女は冗談ぽく笑って答えた。
「そうなのかもしれない」
と僕が答えると、彼女は急に真面目な顔をし、
「そう」
と答えた。
「あなたが私を思い出したとき、私はきっと死ぬんです。恋とは幻想的な心の病なのだわ」
彼女が急にそんなことを言い出した。僕は彼女の言っている意味がよく分からなかったので、
「もし恋が病だというのなら、そうならない方が良いということなのかな」
と聞くと、
「いいえ、そうじゃありません、そうじゃないの。私たちは、病にならねばならないのです。病によって、私たちは強くなるのです」
と言って涙を流し始めた。僕はどうしたら良いのか分からず、おろおろしていると、彼女がこちらにやってきて僕を抱きしめ、そして頬に軽いキスをした。あまりに急な出来事に僕は困惑してしまったけれど、彼女からはどこか懐かしい匂いがした。
「恋とは、素敵で残酷な病なのよ」
彼女はそう言い残し、この広間の右側面にある黒い扉を開け、出て行ってしまった。僕は少し呆然となってそこにいたのだが、ハッと思い立って慌てて彼女が出た扉を開けると、そこは外で、あのシロクマが立って待っていた。行きの時に乗った黒い車も、道の脇に止められていた。
「おかえりなさいませ」
そう言うシロクマに白い髪の女性が出てこなかったかと尋ねると、
「いえ、私もさっきここに来たばかりですので」
と知らないと言う。
「ここには別のお客様が来られることもございますから」
僕の質問には意も介さず、シロクマは車に乗るように促した。運転席では相変わらずクマノミが泳いでいた。
「お帰りになるときは、車の中で目を瞑るだけで良いんですよ」
シロクマが言った。僕は、あまり目を瞑りたくなかった。できれば、ずっとここにいたい、と思った。それでも、シロクマが僕を見ているので、僕は目を瞑った。
目を瞑ると、光が無くなっていった。完全に、というわけにではなく、消えかけていた光が、そのまま真っ白な光へと変化し、眩しい、とすら思った。
これはどういうことだろう、と目を開けると、僕は家の中にいた。
眩しい、と思ったのはどうやら部屋の明かりのようで、自分の部屋の電気をつけっぱなしにしていたらしい。
机の上には、今日の夕方に受け取ってまだ未開封の宅配の段ボールがあった。段ボール箱を開けると、中にはしばらく前に購入した「水族館のスノードームセット」が入っていた。
シロクマが氷河の上におり、ペンギンと鯨がドームの中を泳いでいた。そして、「お買い上げありがとうございました」との手紙。

夢にしては、先程の記憶はあまりにしっかりしているし、現実にしてはあまりに幻想的だ。そんな、僕の夢のような夢の出来事はあっけなく終わってしまった。

わたしは、恋をしている。

僕は、小さくそう呟いてみた。
そうかもしれない。そうなのかもしれない。
僕はそのスノードームを手に取りしばらく眺めてから、電気を消し、改めて眠りについた。

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