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ささど「花火とその余熱」前編

「今年もたのしかったね、塔也くん」
 関野遥が僕に笑みを向けながらそう言った。余裕を湛えた、世界の全てにーー彼女の認識する世界そのものに――慈愛を注ぐような、そのような笑顔だった。慎ましい美しさが遥を包み込んでいる。しかし、その姿は僕を幸せにはしてくれない。
 大晦日の午後一一時三〇分、僕と遥は山奥の国道上にいる。道路自体は綺麗に舗装されているが、ガードレールを境界として、その先には暗い山肌が広がっている。年の瀬だからなのだろう、車通りは皆無に等しい。道路照明の光が僕たちの頭上から降り注ぎ、遥の顔に仄かに影を差している。
「受験もあるし、僕は辛いことばかりだった」
 会話を続けるには長すぎた間を放置して、僕は先の言葉に返答する。確かに、楽しいこともあったけれど、しかし、僕は彼女の言葉を否定する。否定しなければならない。
「受験も上手くいけばいい思い出になるよ」
「思い出を作るのは結果でなくて過程だ。どれだけ僕の夢が叶おうと、そこまでの道筋で落とし穴に落ちた苦痛は心に残り続ける。そこから這い出ようとして、指に創った酷い傷と一緒に」
「どうしたの、急に」
 遥が口元に手をあて、くすり、と微笑んだ。
「でもそれは、どんなに酷い最期を迎えたとしても、過程さえよければいいってことだよね。なら、私も賛成だな」
 そう遥は続ける。その瞳には一等星から発せられた鋭い光が刺さっている。その視線につられて、僕もゆっくりと空を見上げた。
「僕は、遥のその言葉には賛成できない」
 実際には少し違った。賛成できないのではない。賛成したくないのだ。この状況において僕が彼女を肯定してしまえば、全てが終わってしまう。関野遥とともにあることが前提である僕の人生に、エンドマークが打たれてしまう。その境界の先にどのような人生があるのか、僕は想像したくなかった。
「矛盾してるよ」
「それでもだ」
「変なの」
「変でもいいよ」
 沈黙がオリオンの浮かぶ寒空に漂う。冬の象徴であるかのような鋭角の風が、そのしじまを責め立てるように僕たちに突き刺さる。それに反応するかのように、遥がもう一度言葉を発する。
「今年もたのしかったよね」
 僕たちは過去の世界へ視線を向ける。
 
 
 
「年越しは塔也くんの家で過ごしたね。炬燵に入って、ミカンを食べてた」
「僕は紅白が観たかったのに、遥がリモコンを隠した」
「だって、興味ないんだもの。笑えるわけでもないし」
「今年こそは紅白を観てやろうと思ってたのに、なんで僕たちはこんなところに居る?」
 問いに対して返答はない。遥が時を進める。
「二月に一回だけ大雪が降ったよね。塔也くん、幸せそうに雪だるまを作ってた。ほら、これ、写真」
 液晶の亀裂が僕の穏やかな笑顔に重なっている。
「遥が僕を家から引っ張り出したんだろ。僕は一人でゆっくりしたかったんだ。大雪警報で学校が休みになったんだから」
「たのしかったでしょ?」
「そう見えてたのなら成功だ」
「素直じゃないね」
 微笑みとともに、遥の右手が僕の左手を握る。遥の生きた感触が僕を現実に磔にした。逃げることは許されない。今にも触れてしまいそうな未来の実在が、不要なまでに感じられた。夢であればいいのに、と願う。空に流れ星はない。
「三月はとくになにもなかったね」
「なんでここにいるのか、考えてみろ」
「ああ、そっか」
「僕は絶対に三月のことを忘れないし、遥に忘れさせるつもりもない」
「どうだろうね。『なにもなかった』は思い出にはなれないよ」
 そもそも、『なにもなかった』が誤りなのだ。三月は確かに僕たちを変えたのに、どうして『なにもなかった』ことにできる? あれは間違いなく僕の人生における最大の落とし穴だったし、遥にとっても大きな転機だったはずだ。
 回想の隙を無理矢理に埋めるように、遥が大きく息を吸う。彼女の目論見は見事に成功して、会話の流れが断絶される。些細な悪意を孕んだ目をこちらに向けてから、もう一度遥は遠くのどこかに視線を送った。正確な理解はままならないが、彼女が過去を見つめていることは容易に類推できた。
「四月はいつにもまして桜がきれいだった。通学路の桜並木を毎日一緒に歩いたね。もう何年もそうしてきたのに、今年は何かが特別だった」
 僕は何も返さない。遥がまた時を進める。
「五月になると気温がちょうどよくなってきたから、塔也くんを連れて色んなところに行った。塔也くんも私を色んなところに連れていってくれた。遊園地、たのしかった。
「六月は梅雨でちょっと憂鬱だったけど、紫陽花がきれいだった。これも、いつもよりずっと。
「七月は海に行ったね。きらきらしてて見惚れちゃった」
 そう続けざまに「思い出」をたどったのち、遥は一度話すのを止めた。次のことを考え込んでいるようだった。僕はつぐんでいた口をゆっくりと開いた。
「八月、花火は見られなかった。僕が夏風邪をひいたんだ。あの時はごめん。来年こそは花火大会に行こう」
 これは今の彼女を否定するための台詞だった。彼女のことを認めないための、苦し紛れの抵抗。もちろん、そんなことでこいつが変わらないことくらい、付き合いの長い僕は知っている。それでもこれは不可欠な行いなのだ。
「九月に入ると、受験勉強が本格化していった。一緒にいられる時間も減った。受験さえ終わればまた元通りになると、そう信じて僕は勉強を進めた。十月も、十一月も、十二月も、ずっとずっと、僕は来年のことを考えてた。したいことだっていっぱいあるんだ。花火も見たいし、新天地の全く知らない道を一緒に歩きたい。きっと、それがいい『思い出』になる。僕が死ぬとき、それがきっと僕を幸せにしてくれる。死は当然不幸だけれど、大事なのは過程なんだ」
「いじわるだね」
「なりふり構ってられないさ」
「私のこと、好きなんだ?」
「僕には遥しかいないし、遥にも僕しかいないんだ」
「そうだね」
 左手の感じていた熱がいっそう強まる。
「今日は最後の思い出なの。特別な一年間の最後。最後も塔也くんと一緒にいたいんだよ」
「最後だなんて言うなよ。僕たちには明日があるんだ」
 隔たりなど存在せず、僕たちには明日が訪れる。西暦や時刻は制度的なものでしかなくて、僕たちの人生は糸のように始まりから終わりまでつながっているのだ。
 雲が青い月光を遮った。
 
「だからさ、死ぬだなんて言わないでくれ」

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