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初春の章P.age.1——発足に際して/「P.ink」創刊号

 この章では、会内三局(事務局・演劇局・文芸局)それぞれの長が発行に際して抱負を綴った「発足に際して」が掲載される。これは、本会の発足宣言としての性格を半ば有する。
 また本誌は、総合表現サークル“P.Name”本規約が巻末付録の形で掲載されており、これも「発足に際して」と共に、インターネット上で掲載される。

 総合表現サークル“P.Name”とは一体何なのか。今後、どこへ向かっていくのか。

発足に際して——事務局長 Moooorning

Q. あなたにとって“P.Name”とは何ですか?
A. それ「人生の全てです」っていうやつ?笑
 
Q. 真面目にお願いします。
A. 自分のクリエイティブを遺憾無く発揮できる場所。つまり自分の「やりたい」を実現できる場所。それが総合表現サークル“P.Name”です。


Q. あなたにとってクリエイティブとは何ですか?
A. 人生です。これはガチで。
 
Q. 事務局長としてどのような面でそのクリエイティブに貢献したいですか。
A. がんばります!!!!!!!!

 
Q. この団体に参加した動機を教えてください。
A. 会長が優秀だったからです(媚)

 
Q. 真面目にお願いします。
A. 純粋に、「おもしろそう」を掻き立てられたからです。元々、「やってみたい」ということに猛進するタイプなので。“P.Name”には、色々な分野に長けた人たちが集まっていて、「何かが始まる感」を体で受けとりました。自分が今、暗闇にいて、そこには“P.Name”という扉があって、向こうからまばゆい光が漏れてきている感じがしました。
 
Q. この団体をどう盛り上げたいですか。
A. 「“P.Name”があるから立命館に来た」と言われるような団体になりたいです。この先、誰かが有名になった時、「“P.Name”所属」とプロフィールに書けるような団体にしたいです。夢はおっきく!!!!!!!!!!

Q. 最後に一言!
A. Moooorningのoは4つです。

発足に際して——演劇局長 ササキソラニン

 不思議な寄り合いですね、この“P.Name”は。現在、本会には文芸局と演劇局がありますが、気づかぬうちにいろいろな人が集まってくれました(尤も、その殆どは紀政諮が集めてくれたものですが)。発足の当初ということもあり、他団体への所属を兼ねる人が多いです。そんな現状の話ではありますが、なかなかに曲者というか、個性と力のある人たちが揃っているように思います。その、一定の拘りやら自負心やらを持った会員たちが、寄り集まって、各々のしたいことを、したいようにする。そんな〝目的〟と〝手段〟を兼ねた存在だと、思っております。
 他団体のような単なる所属先ではなく、この“P.Name”は、所属でありながら〝道具〟であり、〝目的〟の先である。そのように、思っております。
 
 元々は、OICに演劇をなさる団体がないことから、身近にそのような団体ができればよいのになぁ、と。そんな、ふんわりとした思いでありました。それが紀政諮文芸局長との出会いから、彼は自身の物書きとしての団体を、私は芝居の出来る場を、と、其々の思いの下に、ともにその団体を創立することとなりました。それが、この“P.Name”という団体であります。
 
 さて、紀政諮から「演劇局を今後どうしていきたいか」を書けと注文をつけられています。是を語るにあたり、少し、長く語らせていただく必要があります。そもそも演劇、ひいては芝居とは、古きをただせば神楽。神に奉納するための舞や、その一部のことでありました。それより能や、より面白可笑しく人の親しめる狂言となり、そして大衆文化として、歌舞伎という芝居の文化が発達したわけです。この古い神代の舞より、大衆化された所謂旧劇が、西洋文化とその近代演劇との交わりを経て、今日の、新劇に至るわけであります。神楽の話に戻りますと、芝居のその目的の中には、己を神仏と同一化させることがあります。そうして自身をより高位の存在へと高めたうえで、神に、その舞や、芝居を奉納するわけです。これをより世俗的に、親しみやすくしたのが今日のミュージカルを含む演劇でありまして、その習合する対象は同位の人間で、奉納の対象は客たる人間であり、自分自身であるわけです。その表現方法は非常に複雑で、役者当人の芝居のみならず、音響や照明、ひいては脚本づくりといった細やかな要素がその演出に関わります。
 芝居をすることにより、我々は、複数の他人格を自身のうちに取り込むことになります。それは、思考の複層化や、客観的な視角の獲得に繋がるわけです。無論、音響の材料選びに照明の工夫はこの客観性が充分に得られたことの証明になりましょう。自分以外の存在を自己の内に創り、取り込み、新たな自己を演じる。私は芝居のこういうところが好きであり、人生を是に捧げる人の多いことも頷けます。
  さて、今後この演劇局をどうしていきたいかという問いですが、以上のようないろいろのことを、我々は学生の身分で、すべて自分たちで為さねばなりません。それ故、いきなり全てを、素人同然の自分たちだけでしていくというのは大変困難なことと思います。そのため、今後の目標としては、文芸局等他の活動局と交じりながら、各々に出来ることから取り組んでいき、同時に、本団体の目的でもあります〝やりたいこと〟が出来るよう、その力を付けていこうと思います。
 当初の目標としては、活動の実績を積んでいくこと。そしてより多くの方々に、我々の活動を認知していただき、同じ思いの下に集える人を増やしながらより大きな組織にしたいと考えております。
 
 “P.Name”の好いところは、同じ〝したい〟の思いの下、全く別々の活動主旨のひとにも関わらず、交流ができることだと思っています。それは確実に、異なる活動者の相互に影響を与えつつ、更なる技術と自負心の発展に繋がると思います。
 演劇局に関していえば、舞台づくりという、人生をかけて為せるかどうかというものを、すべて自分たちで為すという非常な困難に取り組みます。しかしそれだけに、成し得た際の快楽は素晴らしく、何にも代え難い報酬となりましょう。またそれは参加した者のみならず、その近くで目撃した人にも伝わることでしょう。私は、是を、演劇人なれ、その他の人なれ、一人でも多くの人に味わっていただきたく、このことが、この“P.Name”に掛ける想いであります。
 
 我々“P.Name”は、長い準備を経て、ただいまその黎明を迎えようとしています。
 ちょうど新年は癸卯(みずのと う)の年。旧年の長い準備から、その「努力が花開き、実り始める」年であります。この癸卯の年に、我々“P.Name”は、大きくこの門を開き、広く新たな人を迎え入れると共に、放たれた門より飛び出すように活動をスタートさせます。
 今一度申します。我々“P.Name”は、やりたいことをやるための団体です。ぜひ、其々の楽しめるように、やってまいりましょう。またそのためには、皆様其々のご協力が不可欠かと存じます。これより長く、ぜひ、宜しお願い申し上げます。
 まとめると「がんばるびぃ」ってことです。

発足に際して——文芸局長 紀政諮

 今、全ての原始はエゴであった。と、誰しも十六歳くらいで気づく時代である。嘆くことはない。それは発展なのだから。
 ある砂は自ら風をあおるべく、風前を逃れ波浪する。ある砂は白夜の夏を生き晒すべく、青天の春を嘲る。新自由主義はシンテーゼではなかった。人工砂漠に万物が流転している。有権の砂粒たちは、真の自由を渇望する。砂丘の呼び声は、今日も芳しい。
 かつてコケ一つ生えぬ岩肌であった大地の、人工砂漠への発展は、素晴らしく、目覚ましい。故にこそ、その呼び声は、私達の集合する動機たりえたのである。
 さてここに総合表現サークル〝P.Name〟は初声をあげた。令和の清新の若者の頭脳と手によって始めてできた「P.ink」も初声をあげた。
 技術革新という太陽に照らされて、若者という月は実に輝きを増してきた。月に競り寄せ廻る情報流星群を、デブリと嘲る地球人ばかりである。しかし、私達は知っている。その嘲りのもとに隠れた、あるものを。

 さて、誰がどう見ても平塚らいてうの「青鞜」への意識にまみれた辞をもって、ご挨拶(?)の始めとする。あこがれなんです。許してほしい。ここから先の文章が駄々っ長いのも、あの辞の真似事がしたいからです。無垢なあこがれに免じて容赦してほしい。ぜんぶ手癖だけで書いています。痛々しい? 共感性羞恥? うるせえ! 人生で一回はコレをやらなきゃ気が済まねえ! そういう活動をメンバーにも堂々と推進していく、そんなFuturizeのThe First Penguinに僕はなる! あと巻末に記載のあります各種SNSのフォローもよろしくお願いします。今後とも私達のあこがれをお引き立ていただくべく、何卒。

 あこがれ。文明社会が文明社会らしくなるにつれ、即ち文字通り、有史以来、多くの人々が抱えてきた衝動。あこがれ。それは今に至り、新たに「自己実現欲求」という名を得た。私達は正にこの人類共通の本能を希求すべく建設された共同体である。

 共同体。古代ギリシアの都市国家ポリスには、都市ごとに個別の神がいた。私達のポリスの祭神は、即ち、あこがれである。自己実現である。真の自由の下に顕現する、今世代、人類が希求すべき、人類を人類たらしめる所以の衝動。私達のシノイキスモスは正に砂丘の呼び声に応えたものなのである。私達はアゴラを建設し、ストアを建設し、城門を建設して、アクロポリスを建設した。砂粒が集い、潤い、燃え盛り、完成した集落は今天、日の目をみる。
 しかし、本来大学のサークルとはそのようなものではなかったか。この冊子の最後には、私達のデオキシリボ核酸たる会規約を付する。問う。このようにあえて明文化せずとも、本来、サークル活動とは、会員の自己実現を支援し、自由な活動を認めるのではないのか。会員はその意志をもって参画した企画に精を出し、青春と成すのではないのか。また、問う。なぜ砂丘の呼び声は今日も芳しい。四方にとどろく、この、砂と砂のこすれる甲高い、透明な、かなしい地鳴りは何か。清新の砂は自由を欲している。

 自由と清新。立命館大学の校是である。平和と民主主義もまた謳われる。では、そのイデアを堂々と論ぜられるサークルが幾らあろうか。いかなるサークルも原始、実にイデアを抱えていたはずである。それが、世代を下るごとに、世が発展するごとに写像となってゆく。過去という太陽の光をもってのみイデアをまみゆ写像。月である。美しい。美しいが、その真善美は、私達の聞く呼び声の主張とは別物。
 知見は深まった。技術も蓄えた。人もある。新たに核融合を起こし、令月の風に太陽を成す代なのである。立命館民主主義はここに生きている。
 
 立命館民主主義。去る秋、私達はその枠組みへの参画を試みた。本誌にも作品が掲載された、ハロウィンプロジェクトへの取り組みという活動実態を以て。その結果について私達は、ただ、私達の力不足を顧みるばかりである。
 端的に結論を記す。私達は、来春の申請にも挑戦し、晴れて晩夏、参画を試みる。そのため私達は、自由で、清新で、民主主義的かつ平らかに和を尊ぶ姿勢で活動に励む。また、快活と堅実の両立もまた重んずる。実存に影響できない思想は信条であって政治でないのと同様、実現なき情熱は信念であって行動力ではない。学友会調査企画部の方々はそのことをよくよく理解されていた。されていたからこそ、私達に建設の猶予を賜ったのである。
 本望である。私達は書き、踊り、走り、詠い、造る。私達は実現すべき自己を幾らも併呑し、その全ての方角へと火をふく多頭の龍である。私達は酒に酔わない。私達は握剣に屈しない。頸に秘めた、剣よりも強きものを、私達は決して棄てない。神話ではなく、現実に存在する力強いうねりが私達であるのをありありと示し、再び審議の卓布に乗るのが、今の私達の見る喫緊の将来である。

 将来。あこがれの青鞜を訪らえば、平塚らいてうは次のように述べている。
「私は又思ふ、私共の怠慢によらずして努カの結果「青鞜」の失はれる日、私共の目的は幾分か達せられるのであらう、と」
 青鞜社は今で言うところのNPO法人に近いところがあった。その本懐は「つづけること」ではなく「なくなること」である。存在価値の根源を自ら貪り、尾っぽから姿を消していくウロボロスこそが彼らの本質である。
 では、私たちの将来はどうあるべきか。望むべく、私達の活動が実り続け、目標を次から次へと達するとき。その様子は食事というより、むしろ脱皮と形容できよう。私達の目標とは自己実現であり、自己とは会員の自己である。内なるあこがれを表出して鱗となり、ほろりと卒業して後続に委ねる。委ねていった末、はじめの頃と多少違う模様になっても私達は全く構わない。呼び声は変質する。なりたい色の皮膚を纏い続けることを、この大蛇は望んでいる。

 色。では、今、その躯体は何色か。
 それがこの冊子なのだ。
 さてここに「P.ink」は初声をあげた。令和の清新の若者の頭脳と手によって始めてできた総合表現サークル〝P.Name〟も初声をあげた。自由な学生の高度な躍動を、情報過多と嘲る大人ばかりである。しかし、私達は知っている。その嘲りのもとに隠れた、あるものを。

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