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ダンボールシェルター 後編 / 志宇野美海

 この小説は、総合表現サークル“P.Name”会誌「P.ink」七夕号に掲載されたものである。本誌は2023年7月7日に発行され、学内で配布された。


五 

 帰りの会が終わると皆わらわらと帰りだす。私は無理やり教科書を鞄に詰めた。不器用だからか、適当な性格だからか、なかなかうまく鞄に教科書が入ってくれない。いつも押し込んでしまうので時間がかかるわりに教科書の扱いは別に丁寧ではない。今日も、皆より遅れて教室から出ようとしている。月明と害虫が教室の入り口で話している。二人で帰るらしい。もう少し遅れようかと考える。
 
「なあ」
 
 唐突に話しかけられた。驚きながら、声の主の方に目をやると、それがT君の声であるということに気が付いた。T君はいつも一人でいるので、こんな風に話しかけたりするのかと驚いた。そもそもT君は学校を休みがちだ。彼の黄ばんだお下がりの制服や鞄を見れば察せられる、五年間の年季ではない。片親だという噂も聞いたことがある(片親が少ない地域なのだ、このあたりは)、いろいろと複雑な事情があるのだろう。話を続けないとおかしいので、話を続けた。
「え、どうしたん?」
「ナメクジ。家におるって」
 さっきの休み時間の話だ。やっぱり聞いていたのか。ナメクジ女などよばれるのではないかと少し身構える。しかしT君の話は意外な方へ展開していった。
「ナメクジな、どうやって退治しとる?」
「どう? えーと、んー、庭にイチゴ植えてるんやけど、そこにナメクジが集るからさ、それを棄ててこいってお母さんに言われるから、割りばしとかで挟んで溝にぽいぽいって」
「それじゃあかん。それじゃあな、ナメクジがまた庭に戻ってきよる。かといって塩なんて撒いたらもっとあかん」
「じゃあどうするん」
「ナメクジ避けの薬を買ってくるんや、粉になってるやつ。あれをちょっとずつナメクジにかけてやる。少しずつっていうのがミソや、横着してどばってかけたらあかん、少しずつ撒くと嫌がってだんだん自ずから作物に近づかんくなる。何度もやって覚えさせる。そしたらこおへんくなるから」
「へーそうなんだ、お母さんその薬買ってくれるかな、けっこうケチなんだよね」
「絶対買った方がええぞ」
「にしても詳しいなあ、誰に聞いたん」
「じいちゃん。じいちゃんはなんでも知っとる」
 初めて話すはずなのによそよそしい感じがしない。というかT君ってこんなに話すのかと思う。まだ、なんでいきなり話しかけてきたんだろうかという困惑があるが、彼の話しぶりが独特でつい聞き込んでしまう。ナメクジの話のあとは、ヘビ、ハチ、カエル、カメと続く。ほとんど彼が話したいことを話して私が相槌を打ち、私が本で見かけたそれらの生き物の雑学を言っては彼はまたそれについて話だす。いつの間にか教室には私たちの他にいなかった。
「あ、そろそろ帰ろうかな、私」
「なんか用事ある?」
「あーうん、一応。夜に英語のレッスンがあるんよ」
「そう、じゃあ、また」
 そしてそのまま私たちは解散した。道が反対側なので校門を出たら全く違う方向に向かって歩いた。次の日もT君と話した。その次の日はT君が休んだ。

 ある日児童会の仕事が早めに終わった。休み時間が終わる十分前。今日一日は休み時間がつぶれるだろうと思っていたので、何をするか決めていない。図書室に行って本を読むのにも時間はないし、かといって……。何をするか決めあぐねていると、廊下の先にT君がいた。
 あ。声が出ていたかもしれない。手を振ってみると彼も手を振る。こんなところで何をしているのだろう、五年生の教室は三階で、ここは一階の、普段通ることのない廊下。人が少ない。話しかけてみる。
「なあ! 昨日休んでたけど大丈夫?プリントとか見せようか」
「いい、大丈夫」
「何してるの、こんなとこで」
「何って、僕の教室、ここやし」
「へ?」
 彼はそのまま物置小屋として扱われていたはずの相談室と書かれた部屋の引き戸を開ける。そしてそのまま入っていく。
「あ、ちょっと……」
 この部屋は普段鍵が開いていないし、子どもだけで勝手に入ってもいけないと聞いていた。児童会で雑用をさせられた時以外近寄ったこともない。彼はそんな場所に当たりまえのように入っていった。引き戸が少し開いている。私はこっそり隙間から中を覗いてみる。中が暗い。証明はついていないのだろうか。
「なにしてるん、入りーや」
「あ、えと、いいのかな……私も入って」
彼は怪訝そうな顔をする。
「入れば?」
 失礼しまーす……と言って中に入ると驚いた。部屋全体は段ボールでできた基地のようになっていた。窓は段ボールで覆われていて、そのために部屋は特別暗かった。
「わあ、すごい、これ、全部作ったん?」
 二階建てのダンボールの大き目の構造物には、階段や滑り台のようなものまである。前にはダンボール製の看板があって、マジックの汚い字でダンボールハウスと書かれていた。
「うん」
 と彼は言う。彼はその辺にあった彼のお手製品と思われる割りばし製の輪ゴム鉄砲で遊んでいる。
 部屋にはわくわくするようなものばかりあった。彼のダンボールや、その他の材料で作ったお手製品ばかりあった。鉄砲、ダーツ、ボール、オセロ……。それから絵もあった。よく観察されて描かれたような、絵もあった。カブトムシ、クワガタ……。カブトムシはすごくリアルな線を持っているのが、青色で塗りつぶされていた。物色すればまだあったかもしれない。ここは、彼の秘密基地なのだ。チャイムが鳴ったので私は自分の教室へ帰った。彼も呼んだが、彼は来なかった。彼は銃の調節で忙しそうだった。

 五、六限の授業はあまり頭に入ってこなかった。あの隠されていたダンボールの部屋が気になっていった。彼はどれほどの時間をかけてあれを作ったのだろうか。そしてあのように彼が一人であの部屋を占領しているのはなぜなのか。彼はときどき学校を休んだり、早退したりしているのは、あの部屋で過ごしているからだろうか。今度会ったら聞いてみよう、そう思っていたけれど、彼はまた教室に来なくなってしまった。ダンボールの部屋にも行った。でもいつも鍵は閉まっていた。

 ある週末、いくつかの宿題が出た。そのうちの一つが日記で、題は自由だった。何を書こうか考えた結果、ここ最近ずっと考えていた、T君のことと、その部屋について書いた。内容はこんな感じだった。


相談室について

 最近私の頭から離れないことがある。あの相談室のことだ。職員室の奥にある、あの小さい部屋が忘れられない。T君はあそこが自分の教室だと言っていた。あの教室のなかは大きなダンボールハウスがあってすごかった。私もあんなダンボールハウスを作ってみたい。母親にそう言ったら、お前は不器用やから無理って言われた。確かに無理だと思う。でも本当にすごかったのでまた行きたい。T君最近あんまり学校来てないみたいだが、大丈夫なんだろうか? 先生は知っていますか? 私は知りません。————

 そんな作文を書いた。すると先生に呼び出された。何か怒られるのだろうか、と私はどきどきしていた。呼び出された先は職員室だったが、先生は鍵を持っていてすぐに移動した。行先は相談室だった。私はわくわくした。————が、相談室は殺風景な物置小屋に変わっていた。私は困惑した。あの秘密基地はどこに行ってしまったのだろう。夢の残滓もそこにはなかった。先生は言った。
「私ちゃん、ほんとありがとうー。あなたが作文で教えてくれたから、ここに不法侵入して勝手にあんなものをこさえていたのが発覚したのよ。ほんとどうやって鍵を開けたのかしら……。ね、ホント教えてくれてありがとうね」
「え……。あのどうなったんですか、あのダンボールは……」
「棄てたわよ、もちろん。学校のゴミの一部が不審に減っているって話はあったのよ、でもまさかこんなところにため込まれてたとは……」
「T君には伝えたんですか」
「もちろん! しっかり叱りつけました! あら、でもあなたから教えてもらったということは伝えてないわ。用務員の人が発見したってことにしてる、だから安心してね」
 そうですか、としか言いようがなかった。私はこの状況を受け止めきれなかった。こんな非情なことがあっていいのだろうか。彼は、彼は大丈夫なのだろうか。私なら、あんな大作を棄てられでもしたら、きっと正気ではいられない。私は先生に対する強い侮蔑を感じた。激昂の炎がめらめらと燃えて、たぎっていく。今すぐにでもこの教師に文句を言いたくて仕方がない。もしも私が私でなければ、私は今すぐにでも服を脱ぎ棄て、咆哮し、この世の理不尽の全てに怒鳴り散らかしていただろう。しかし私はそうできなかった。私は————あのダンボールハウスよりも自分の立場を重要視するほど悲しい人間なのだろうか。

 私はちゃんと返事をしていたのだろうか。いつの間にか先生はいなくなっていた。私はただ、がらんどうの部屋の前にいた。部屋はとっくに閉じらている。ここに立ち尽くす意味はない。なのに、足が動かない。ようやく顔を上げられるようになり、歩き出そうとすると、ダンボールの小さな破片を発見した。特に意味のない破片に思える。何か特別なメッセージが書いているわけでもなくかといって、特別な形でもない。なんの変哲もない破片。————いや、よくみると。なんだかナメクジのように見えてきた。
 私はそのダンボールの破片をポケットに入れた。そして大事に持って帰った。
 それ以来彼が学校に来ることはなかった。T君は静かに学校から去った。

 私は、あの日のことに関して強い罪悪感を持っていた。しかし、このように大学生になって、一人暮らしという自由を手にして、あの日の単純な罪悪感を言語化でき解析できるようになった。
 彼は、なぜあの日、私に話をしてきたのだろうか。好意によるものではないだろう。単純に話したかったんだと思う、彼も。私が小学五年生の時本当に得たかった、話し相手。同じベクトルでしかし、差異のある相手。私たちはナメクジを通じて、会話をしていた。彼も、私が感じていたような温かい気持ちをきっと持っていてくれたに違いない。彼は、あのダンボールハウスへと案内してくれたのだから。あのダンボールハウスはゴミなんかではない。あれは彼のシェルターだった。彼のナメクジのように剥き出しの心は、いつも何かに傷つけられていたらしかった。それは彼の複雑な家庭環境のせいなのかもしれないし、別のことだったのかもしれない。後で聞いた話だが、あの担任とは相当折り合いが悪いらしいことがわかった。彼は飄々としていたように感じた、自由なムササビのように。しかしそんな姿を見ていたのはあのクラスでは私だけだったのかもしれない————これは、自信過剰ではないはずだ。彼は何から救われたかったのだろう、何を願っていたのだろう。あのダンボールハウスのなかで。
 ダンボールをゴミ捨て場へと持っていく。雨上がりの匂いがした。アジサイの下にナメクジがいた。ダンボールのような色味の大きなナメクジだった。

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