詩誌「ファイノメナ」発刊 #すばる座プロジェクト

 この記事は、総合表現サークル“P.Name”会誌「P.ink」七夕号に掲載されたものである。本誌は2023年7月7日に発行され、学内で配布された。


 サークルや大学の所属に関係なく、広く詩人の方々から詩を投稿してもらう。その詩を、会内の音声化ユニットで朗読し短い動画にする。そしてそれらを一冊の詩誌にまとめ、ネットプリントで配布する。詩誌のタイトルは、古代ギリシアの詩人の著作になぞらえて「ファイノメナ」とする。

 そんな、小説ふうな物語にでも出てきそうな企画を、当会では実際に五月から運用した。

 本企画の狙いを三つに大別すると左のようになる。

・詩に関する本格的な企画をひとつ回す
・演劇局員に活躍の場を与える
・自分の作品が音声化される感動を共有する

 大学の文芸サークルの活動というのは、いささか小説に偏りすぎてはいないか、という思いが企画者には常にあった。いいや、大学に限らず、そもそも「物書き」と呼ばれる生業においては「現代詩」は小説と比べて商業的に下火である。そんな嘆きを、オンラインの同人詩人界隈で常日頃聞いてきた。
 ここでひとつ、極端に詩に特化した企画を回すことによって、大学の文芸サークルという枠組みにおける「詩」のあり方に一石を投じたかった、と言って仕舞えば少し大仰かもしれない。しかし、この分野が未だ「ブルーオーシャン」の状態であることを感じ取ったのが本企画を立ち上げた動機の一つであったのには全く間違いがないのである。

 今回の企画に応じて会内に立ち上げたリーディングユニットはその名を「叙演声団(ジョエンセイダン)昴畢(すばる)座」という。
 実のところ、今年度に入る以前から「声劇ユニット」の構想はあった。
 総合表現サークル〝P.Name〟は、文芸のやれる人間と演技のやれる人間とそれらを手伝えたりそれ以外の表現ができる人間とを一堂に会させ、各々のやりたいことを好きにやってもらうというコンセプトの団体である。しかし発足して間も暫く、その活動のほとんどは「小説の執筆と公開」に終始していた。この間、さながら文芸局の方が当会の主体であり、演劇局はその手伝いであるかにみられかねない状況が続いていた。
 このため、今年度の活動を構想するにあたって念頭にあったのは演劇局の活性化および主体化であった。例えばこの企画は、弊団体の代表であり文芸局長でもある私が、そのどちらの肩書きでもなく、いち演劇局員として、役者名の名義の方を用いて立ち上げた「一般企画」である。また、あくまで企画は「昴畢座」が、つまりは演者たちが主体である。彼らの要請に応じて会の内外を問わずに文芸人たちが自ら詩を託す。この構図が必要であったし、実際そのようになった。これは「演劇局」に所管される企画なのである。

 自分の作品が音声化されることの感動を提供するのは、そもそも当団体の十八番と言ってもいい活動だ。私団体設立当初から、初期メンバーたちがこれでもかというほどに味わってきたものでもある。
 特に詩というのは、音声性とは切っても切られない表現形態である点において、小説をはるかに凌駕する。
 「ポエトリーリーディング」なるものが巷では流行した。J-popの思潮は伝統的な「音楽の変態的な追求」に飽き足らず、ボーカロイド文化やレゲエ・フリースタイルラップ等の要素を併呑してリリシズム重視の傾向を強めつつある。少し偏った見方かもしれないが、そのように現代の「詩」事情を評価してもいいだろう。
 詩というのは、少々堅苦しく見えたり、逆に「ポエム」と揶揄される類いの恥ずかしいものである。——というようなイメージが未だ根強くはないだろうか。しかし、仙人が霞を食うが如く情報から必須栄養素を取得し、パターン化されたエモを喰らう私たち「令和エモ世代」の人間は、無自覚のうちに「詩の良さ」を知っている。その媒体として「音声」が使われるので気づきづらいだけだ。
 右のごとき評論は少し強引でもある。実際のところ、「詩情」の代わりとしてメロディラインを用いるのが「歌」であってそれは「詩」とは別物だ、という見方もできる。
 しかし、大切なのは結局「楽しく触れること」だ。

 この企画を数ヶ月回してみて浮き彫りになった欠点としては、やはり投稿される詩の量に対して音声化が追いつかない点が挙がる。
 当初、言ってしまえばまだまだ無名の団体である私たちの呼びかけでは、それほど多くの詩人は集まらないだろうと考えていた。しかし蓋を開けてみると、当初の想定以上に大人数かつ多種多様な色を持った詩人たちが参入してくださった。詩がひとつまたひとつと投稿され、私たちも順次音声化を進めると、投稿の波は加速した。現在、音声化が追いついていない詩のストックが膨大な数存在している。
 これは当会の執行能力が企画の魅力に追いついていない、需要に供給が追いついていないという事態であり、遺憾と言わざるを得ない。
 本企画はそもそも、月に一度の詩誌刊行を目標としていた。当初、この妨げになるのは投稿される作品本数の不足であろうと考えていた。しかし実際のところ、単にユニット構成員の日程を調整し音声収録をするという点における困難がその原因となってしまっている。この点は改善されなければならない。何らかの措置をとる。
 代わりと言っては当たらないが、七月の末ごろに、後述する #たなばたプロジェクト によるファイノメナ七夕特別号を配信したいと考えている。ぜひ当会メディアをチェックされたい。

 ここに来て、本企画をやってよかったと思えることをまだひとつ書きそびれている。
 この企画は、確実に、演劇局員の「解釈・構成能力」の向上に寄与している。
 本企画における音声化の細かい流れはこうである。まず、投稿された詩をサークルのGoogleドキュメントにまとめ、ユニットメンバーに共有する。そこから、やってみたい詩を選ばせ、収録の日程を決める。当日、その詩の解釈を深め、演出の仔細を演者と私とで話し合う。この工程が非常によかった。
 ユニット名に冠する「叙演」とは、ドイツの劇作家ブレヒトにいうところの「叙事的演劇」からもじった。正直、語感がいいのでつけたというのが企画者としての本音ではある。しかしこれが案外ハマっていた。
 叙事的演劇とは「簡単に言えば、舞台上の出来事への参加体験・感情移入を観客に求める、従来の演出による演劇」に対して、逆に「そのように肩入れすることなく、芸術として少し離れた立場から評価できるように観客を誘導するような演出による演劇」のことだ……というふうに企画主としては解釈しているのだが間違いないだろうか。弊学のすぐれた文学徒たちに指摘は丸投げして、とりあえずその前提で話を進める。
 この企画では、基本的に、詩人と演者との間でコミュニケーションをとらない。演者はテキストのみの情報から自分なりに詩を読解し、自分の解釈で演出をつける。私はその手助けをするに過ぎない。
 言うなればこの企画の本質は「二次創作のあっせん」である。この企画は単純な「メディアミックス」ではない。営業努力と計算によって著作者人格が一枚岩な商品を提供する類いのビジネスでは決してない。むしろ演者は生産者である前にまず消費者である。その「距離感」のうえに本企画の面白みは成り立っている。さながら正に星座。故にこのユニットは「叙演声団昴畢座」を名乗るのである、ということにしたい。

「読者の立場で解釈するというのは究極的な感情移入の作業なのだから叙事的演劇の対局ではないか」
 という指摘が聞こえてくるような気がする。やかましい。細かいことはいい。

 本企画がいつまで続くかはわからない。少なくとも、夏休み中は続けたいと思っている。その後、セメスターが切り替わる度に継続もしくは中止の判断をすることになるだろう。

 どのような結末をたどり、どのようなものを世に残すにせよ、その光が、つめたく暗い世界のどこかをあたたかくできていればいい。そう願う。

文責:紀政諮(代表 / 文芸局長)

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