あぁ, えぇなぁ。

坐禅, 瞑想を続けていると普段見過ごしていた小さな感動に出会うことがあります. ちゃんと取り組んだ日は, ですよ?

※ note の投稿は, 第一幕として昨年度の夏休みに一ヶ月間禅寺で生活した「ショートステイ」の日記, 第二幕として12月の一週間を利用して参加した「臘八大接心」についての体験記に続く, 第三幕「おうち修行」とシリーズ化しています. ご興味のある方はバックナンバーと合わせてお読みいただけますと幸いです.

風景に

昨日は, 朝の瞑想を済ませた後に天気が良かったので散歩に出かけました. (そういえば梅雨が明けて天気が本当に良いですね. )下宿しているアパートの近くにあるキャンパスまで歩いて行きました. セミが鳴いていて, 歩いている人も夏の服装で, いよいよ今年もと言った雰囲気を感じました. 僕が通うキャンパスでは, 新たな建物がこのコロナで自粛している間に建設されていて, 学生の知らないうちにいよいよ完成を迎えるといったタイミングにあります. そんな建物をちらっとみながら少し高いところまで登ってみると, なんとも空が綺麗なのに気がつきました. 浮かんでいる雲は, 遠くにありながら迫力が満点で, 同時に照りつける太陽があらゆるものに反射しながらその光を届けてくれます. (実際は眩しくて鬱陶しいです. )そんな風景に感動し, 思わず写真を連写してしましました. コロナで自粛が始まって以来, ほとんどの時間を家の中ですごしていたのでこうして外の世界で感動に出会えることが久しぶりでした. このように, 瞑想をこなしたことで, 外に出てみよう, 今まで見逃していたものを見つけよう, というセンサーが働くのかとても充実した散歩になりました. 

言葉に

風景は目に見えるためにわかりやすく感動につながりますが言葉や感情と言った目に見えないものに対しても発見があります. この前, 実家に住む妹と電話をしていた時, 珍しく親から誕生日をしっかり祝ってもらったという話を聞きました. 確かに僕の家は今までを振り返っても本当にかたちだけケーキが置いてあったり, プレゼントがあったりで雰囲気的な盛り上がりのある誕生日は経験したことがありませんでした. しかし, 妹は今年で18歳ということもあり来年からは大学生でおそらく下宿先で誕生日を迎える上に家は僕と妹の2人兄妹なので, 子供の誕生日を祝えるのが最後だという認識があってようです. そのためか, 夜遅くに, バイトから帰ってきた母親が30秒くらいで, 冷蔵庫からケーキを出し, ろうそくをたて, 部屋の電気を消し, 「ふけふけ」と言って火を消させて, 拍手をするというゲリラ的な誕生日の一幕があってそうです. この様子を自分は電話でしか聞かなかったのですが, そこから思い浮かぶもの, そして親子の会話というものが感動を与えてくれました. 普段は, 人の話をつい聞きそびれることも珍しくない自分ですが, 瞑想中に意図的にシャットアウトするものがある分か, 何気ないことが自分にとって大きく感じます. (いい意味でです. )

自分に

最後はやはり,自分自身に関しても発見があります. (感動というとバカな人みたいなのでやめますが)よく今の自分は三ヶ月前の自分の意識を反映しているなどと, 根拠があるのか適当なのか, 言われています. そういう言葉を聞けば, だれでも少しは「言われてみればそうかも」って思って納得する部分があるのではないでしょうか?自分も時々そうやって過去のことを考えて今と結びつけようとすることもあります. 瞑想を始めてからは, 少し想像力が広がって?(いい説明文句考え中)少し前の自分と今は何が違うのか, また今これを行うことでどう変わりうるか,と言った変化に少し敏感になりました. こうやって書くと万能なやつみたいに聞こえそうですが, 実際はダメダメです. しかし実感としてそういう気持ちになった的なイメージです. まぁ, ちょっとでも興味を持たれましたら瞑想やってみてください!

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