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科学的に考えることの重要性

科学って何だろうか

 突然ですが皆さんは「科学」と聞くとどのような印象を持つでしょうか。なんだか頭でっかちだったり、権威めいたもの、偉そうだと感じる人がいるかもしれません。また、単に中学や高校時代の科目としての「理科」を思い浮かべる人もいるかもしれません。いずれの印象も間違っていませんが、今回はそんな「科学」について考えてみたいと思います。なぜそんなことを考えたいかというと、「科学」と「科学的な考え方」を私は非常に重要なことだと考えているからです。

 今回は、会社を含んだ、組織の意思決定において「科学的に考える」ことの重要性を主張したいと思います。

科学?化学?理科のこと?

 さて、冒頭でも言及したように、「科学」というと「理科」を思い浮かべる人も多いかと思います。その場合の「科学」とは「自然科学」のことを指します。科学には自然科学のほかに「社会科学」「人文科学」があります。それぞれ、物理学や政治学、文学など様々な学問が属するのですが、その定義について気になる方はぜひ調べてみてください。ここで重要なのは、文系理系問わずいずれにも共通する「科学」の方法と定義があることです。

科学の方法

 まず、「科学」の方法ですが、仮説と検証を繰り返すことです。また前提として論理的であることもまた重要なことです。「論理」というフィールドで、意外にも泥臭く試行錯誤するのが「科学」です。

科学的であることの要件は「反証可能性」

 かつて、イギリスの哲学者であるカール・ポパーは「反証可能性」を科学の要件として定義しました。「反証可能性」とは、「どのような手段によっても間違っている事を示す方法が無い仮説は科学ではない」あるいは「検証されようとしている仮説が実験や観察によって反証される可能性があること」というような意味合いです。意外に思われるかもしれませんが、「科学」とは間違っている可能性を前提としている(あるいは内包している)のです。この点は非常に重要です。

科学ではないもの 「詐欺師のトートロジー」

 さて、上記の定義に従うと、下記のような例は科学に当てはまりません。とある占い師が「心を入れ替えないと来年地獄に落ちる」。なんだか聞いたことがある気がしますが、これは全く科学的ではありません。仮に来年死んでしまった(=”地獄に落ちた” ちなみに死ぬことが地獄に落ちることとイコールであるかどうかわからない点もこういった言説の厄介なところだろう)ら、占い師の言う通り、来年も生きていれば、心を入れ替えたおかげである、という具合である。反論のしようがなく、最強の言説です。原理的に絶対に当たる予言です。怖いものがありません(笑)
 しかしながら、これは明らかに同語反復であり、科学ではありません。このことから、私はこういった類型の科学的でないものを「詐欺師のトートロジー」と呼ぶようにしています。

※念の為、占い師が詐欺師だと主張しているわけではありません。詐欺師は詐欺師でしかありません。

組織の意思決定としての科学的方法の重要性

 さて、もしそうだとして、「詐欺師のトートロジー」の何が悪いの?と思われる方もいるかもしれません。日常生活においてはまったく問題ありません。こういった類の言説を信じる方がいることを非難するつもりは毛頭ございません。個人の心持ちとしてはもしかしたら何かプラスになっている場合もあると思います。

 しかしながら、組織のあらゆる意思決定(戦略や戦術の決定、構成員への評価方法など)においては「詐欺師のトートロジー」であることは最悪だと断言できます。なぜなら、間違いやエラーを修正することができない、進歩や成長のない考え方だからです。

科学的ではない営業管理方法の例

 例えば営業が売り上げ達成のために、営業課長より「月間訪問件数80件」という目標を提示されました。真面目な営業マンAは見事に一年間、月間訪問件数80件をクリアしました。ただ、惜しくも売り上げ目標は達成できませんでした。下記より、「詐欺師のトートロジー」と「科学的な考え方」の場合での戦略の設定や評価の方法について比較してみましょう。

 「詐欺師のトートロジー」を扱う営業課長は、営業マンが嘘をついていることを疑うか、訪問の質が低いことを指摘します。つまり、自分が立てたアイデアは最強であり、ここに対する欠陥は一切ないと考えるとこからスタートします。そのため、80件の訪問を維持しつつ、今度は「訪問の質を上げろ」という指示を出します。そしてまた一年過ごします。今後は「質が低い」という「詐欺師のトートロジー」に拘泥し、悦にいるのです。

 ポイントは、当初の仮説(訪問件数)を検証していない点と、「質」という曖昧で定義化が十分でない仮説の立案です。ここには実は「詐欺師のトートロジー」的なポジションをあえて取ることで自身の責任を巧妙に逃れるという極めて戦略的な(あるいは”科学的”な!)選択の構造が存在していますが、それはまた別の話(これは目標の設定の問題です。管理職は常にミクロとマクロの目標設定のいずれかでブレるという傾向にあります)です。

科学的な方法で考える場合

 一方で「科学的な考え方」をする営業課長は、「訪問件数80件」というKPIが売り上げ目標に与えた影響を分析します。例えば売り上げ達成率の高い営業マンの訪問件数と低い営業マンの訪問件数とを比較する、という単純だが効果の大きそうな方法をまず実施するでしょう。すると、訪問件数と売り上げ達成率には必ずしも相関関係があるわけではないことに気づきます(実は私が働いている会社でも同様の結果が出たのでぜひ調べてみてください。データさえあればものの10分でわかることなので・・・)。しかしながら、ある一定の条件を設けると一定の相関関係が認められました。そのため、当初の仮説が完全に間違いだったとは断言できないように思える。しかしながら、相関関係は因果関係とは異なり・・・・・(以下、検証は続く)

 というように、「論理」のフィールドを前提に、揃ったデータから仮説・検証をくりかえします重要なのは当初の仮説である「訪問件数80件」に反証可能性を認める「科学的な考え方」を持つことです。つまり、当初の仮説に対して「詐欺師のトートロジー」な見方をするのではなく、常に修正する余地を残し、仮説・検証(PDCAサイクルを回すと表現してもいいかもしれませんね)を繰り返す。これこそが「科学的な考え方」です。「詐欺師のトートロジー」的な見方がなぜ最悪かというと、自浄能力を発揮できないからです。もう少しわかりやすく表現すると、進歩がないと言い換えることができるかもしれません。「科学的」でないものには進歩がありません。

もっともっと簡単に言うと

 「科学的」「反証可能性」「仮説と検証」とやや衒学的な言葉を並べてしまったが、要するに「それって絶対とは言えなくね?」という視点を持つことが重要です。たくさんデータを集めることはまず重要なのだが、それでも「もしかしたら間違えているかも」と思うことが重要です。限られたデータの中で意思決定をしなければならないことは本当によくあることです。その中で、可能性の高い選択肢を選ぶことと、間違いであったとしても素直に認め、その理由を検証できることが重要です。

 もっと言えば、科学的な思考で導かれた意思決定であれば「間違えてもいい」と思えることが重要です。常に環境は変化しており、「絶対はない」からです。後で、「この条件が揃っていれば行けたかな」などと検証しましょう。これこそが進歩ではないでしょうか。

 逆に、「詐欺師のトートロジー」で導かれた意思決定は、例え正解の意思決定だったとしても、何がよかったのか検証できません。「多分こうだったんだろう」というノリと勢いだけが残り、それが将来的に「過去の栄光」として負の文化遺産になるだけです。

 こうして考えてみると、「科学的に考える」とは一種の「謙虚な態度」だとも言えるかもしれない。

2021.2.3 シムラ ヨウタ

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