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自己紹介

ぱっと見れば
“普通”の人に見えても
その人の人生のストーリーを紐解いていくと
実は
暗く悲しくすさまじい過去があったり
闇が光りに変わる人生の転機があったり
いくつもの試練を乗り越えて
今の“普通”がある

人は弱い
何度も運命に打ちひしがれる

みんなも私もそんなもの

弱さ無しには生きられない

そんなマイストーリー

〜現在〜

九州の田舎で
夫と
3人のこどもたちに恵まれて
家族5人、
毎日、穏やかに生活を送っています。

仕事は訪問看護師。
急性期病院で3年勤めて、
その後訪問看護師となり
7年目を迎えました。

訪問看護師と聞くと
耳馴染みがないかもしれませんが

病気や障害などを抱えながらも
自宅や施設で生活する方々の
日々の日常生活や在宅ケアなどを支えるのが
訪問看護師です。

厚生労働省によれば、2020年時点で
就労している看護師は約129万人。
うち約5万人が訪問看護師として働いています。

まだまだ少ないですが
在宅医療を支える訪問看護師の一人として
私も
日々患者さんと向き合ってきました。

夫も
そんな在宅医療を支える1人で
訪問する
理学療法士です。

夫は
理学療法士だけではなく
鍼灸師と
医療リンパ浮腫ケアセラピストの資格もあり

その腕は
各方面で評価されていますし

私自身も
彼の
「家でも暮らせるようリハビリで治す」
という
プロとしての意識の高さや
その技術力を
誇りに思ってます。


夫とは
お互いに
医療リンパ浮腫ケアの研修生のときに
知り合い
遠距離恋愛後に
結婚しました。

子どもたちは
長女17歳
次女2歳
長男が5月に産まれたばかり。

毎日我が家は
絵に描いたような
賑やかさで

みなさんに
申し訳ないくらい幸せです。

夫がいて
子供たちがいて
訪問看護師という
これから発展していく仕事ができて
順風満帆なように見えますが

実は
お気付きの方もいらっしゃるでしょうが
子供たちは
歳の差きょうだいです。

長女が生まれてから
次女が生まれるまで
私にとっては闇でもあり
試練の連続でもあり
運命に打ちひしがれた期間でした。

〜過去〜

遡ること34年前。
1990年
私は
4姉妹の長女として生まれました。

母は
初めての子育てで戸惑いもあったのか
円形脱毛を作りながらも
教師ということもあり
すごく厳しく育てられました。

また
長女ということもあり
小さい頃から家の手伝いや
妹たちのお世話など
家庭内のことを
満遍なくさせられてた記憶があります。

家事が終わらないと
遊びにいくことは許されなかったし
家事の精度や
先回りして動くことを
求められ
それができないと
叩かれたり
家の外へ追い出されてました。

「おりこうさんね」
「さすがお姉ちゃんだね」
って言われることが重要で
親の顔色が気になるし
長女のテンプレートみたいな
自分でいることで
家や親といる時は
本当に地獄のような気持ちでした。

高校には
家の経済的負担を考え
家から1番近い公立高校へ進学しました。

家での生活とは真逆に
高校生活はすごく楽しかったです。

小中学生と違い
地域を越えて生徒が集まるので
親の知らない友だちが多くなり
素の自分になれてたこともあり
友達と過ごすのがとても楽しかったし

進学校だったため
毎週末、模試や課外があり
勉強も楽しかったりして

私は家にいる時間が
どんどん短くなっていきました。

そんなある
高校一年生の冬。

私は妊娠していました。

生理が来なくて
妊娠検査薬で調べて陽性。

妊娠した理由は
子供を守るために言いませんが

なぜ私がこんな目に合うんだろうかって
失意のどん底でした。

私は
妊娠したことを
親にも友だちにも
ましてや
産婦人科や警察
行政の相談機関にも
言うことができませんでした。

それまでの
家族が私へ向ける長女像や
楽しい高校生活が
壊れてしまうのが怖かったり

そして何より
幼少期からの記憶により
親から怒られることが
怖くて
そこから逃げてしまう
弱さがありました。

他にも
家庭の経済状況を考えたときに
妹たちも受験を控えていたり
まだ小学生だったりして

とてもじゃないけど
自分に起きていることを言えるとは
思えませんでした。

そうやって
言い訳を作ってたところもあります。

お腹の赤ちゃんよりも
自分が大事で
保身に走っていました。
ほんと、最低。
そんな自分に嫌気いっぱいでした。

日に日に大きくなるお腹と
妊娠を隠すストレスと
赤ちゃんが大丈夫なのかという不安と
未来に対する恐怖でいっぱいで

それまで以上に
勉強に打ち込み
現実逃避していました。

その頃のニュースは
赤ちゃんポストのことや
同い年の女の子が
公衆トイレで出産したニュースや
臍の緒がついた新生児の死体遺棄のニュースなどが流れていて

自分もそうなるのか
とか
私は死ぬしかない
とか
そんなことばかり考えてました。

それでも高校生活は楽しかったから
体育の授業などは休みながら
体育祭が終わったら死のう
とか
文化祭が終わったら…
って
自分の人生に終わりを決めては
実際に行動に移す
覚悟もできずにいました。

胎動があるたびに
赤ちゃんの命への罪悪感や
元気そうな様子に母性が芽生えたり

死ぬしかないって思いながらも
赤ちゃんがいるのに
死ぬわけにはいかないって
矛盾した感情で
押しつぶされそうで

毎日、一人で泣いていました。

そうこうしているうちに
お腹の大きさを
隠すのも大変になってきて

両親が夜いない日を見計らって
家を出ようと準備していたところ

母に
入浴している私のお腹を見られ
妊娠がバレました。


そこから
出産までの
怒涛の日々。

両親には当然ながら
産婦人科の看護師さんや
保健所の人にも
母子の命を思ってですが
怒られました。

はじめての妊婦健診では
すでに妊娠9ヶ月で
1ヶ月後には生まれることと

そして
赤ちゃんは女の子だと教えてもらいました。

高校からは
退学を促され
自主退学へ。

担任の先生からは
気づいてあげられなくて申し訳ないと
謝られてしまい
先生にとって
はじめての退学者になってしまったことも
すごく悲しく

自分のせいで
いろんな人を
苦しめてしまいました。

中卒の17歳の私が出産した後
赤ちゃんをどう育てるかについては

産科や区役所とも相談。

私が育てる
ことのほかに

施設へ預ける
両親の子として育てる
特別養子縁組

などの案も出ましたが

私の希望で

未婚ではあるが
私が育てる

という結論に至りました。

親の前で
親の意見や顔色を気にせず
自分の希望を伝えたのは
この時がはじめてだったかもしれません。

そして
私が17歳の秋
無事に元気な女の子を
出産することができました。

ストレスに晒されながらも
お腹の中で
成長してくれた
赤ちゃんの生命力の強さと
赤ちゃんが存在してくれたからこそ
私は私の命をも守ることができたことに
本当に感謝しました。

そして
目の前のかわいい赤ちゃんを抱きながら
じーんと込み上げるはじめての感情に
「これが愛なんだ」
ということを知りました。

それだけで
いろんな辛かったことから
救われるような感覚でした。

未婚シングルマザーで
若干17歳で
家事育児をしながらで
どんなに働いても
生活は苦しいものでした。

そこから
看護師を目指して
高卒認定を取り
授業料の安い看護学校へ入るために
猛勉強しました。

看護学生時代も
昼間は授業、実習に追われ
夕方ダッシュで保育園へお迎えに行き
ご飯お風呂寝かせつけて
そこからバイトに行き
深夜終わりに勉強という日々を送りました。

日々の忙しさに心が荒み

娘と同じくらいの子どもをみては
満足に洋服やおもちゃを買ってあげられない自分が
情けなくて
悔しくて
たまりませんでした。

家族連れをみては
なんで私は
家族に恵まれないんだろうって
被害者意識を抱いてました。

自分と同い年くらいの人たちが
わいわい学校へ行く様子を見ては
私は
ベビーカー押して
買い物袋下げて
年中同じ服を着て
惨めだなって思ってました。

周囲からは
「若いのにえらいね」
「よく頑張ってるね」
「子育てしながら看護学校に行ってすごいね」

いろいろ励ましてくれてたのに

当時の私は
絶対いつかみんなより稼いでやろう
とか
本当は変な目でみてるくせに
とか
全然すごくないし
惨めな生活なのに誰も助けてくれないし
誰も私のことわかりっこない
こんな人生
本当に嫌だ嫌だ嫌だ!!!
って
心の中では
捻れて
荒んで
ほんと嫌な奴でした。

子育てもわからないことばかり。

娘は健康体ではありましたが
それでも発熱することだってあるし
怪我をしたり
イヤイヤ期があったり

今みたいに
スマホで何でも調べられる時代ではなかったし

日常の些細な疑問が
大きなストレスになっていました。

育児だけでなく
家族関係のこと
お金のこと
キャリアのこと
生活の工夫のこと
美容・健康のこと
近所の病院のこと
将来の老後のこと
などなど
日々、
際限なく出てくる疑問と葛藤を
誰に相談したらいいのか。

誰か助けて!
って心で叫んでました。

そして
このボロボロなメンタルは
どこに解放したらいいのか

10代の私には
到底わかり得なかったし
20代になって
看護師になって
それなりに知識や経験が積み重なってきても
それはわかりませんでした。

人は見かけによらないって言うけど
本当にそうで
ましてや
家庭内のことは
隣の家の人でさえ
計り知ることはできません。

家の中は
閉鎖的になりがちです。

とくに
小さな子どもがいるママやパパ
介護をしている人
親や兄弟が病気を抱えている子どもたち
など
ケアラーと呼ばれる人たちは
社会の中でも
そして
家の中でも
孤独を抱えていることが多いです。


訪問看護師として7年間働いてきましたが
それは
私だけではなく
多くの人たちが
そうであると
実感しています。

家の中では
健気にしていても
玄関先で
家族の見えないところで
私たち看護師に
なんとも言えない気持ちを
吐露してくれることが
何度も
何度も
何度も
ありました。

かつての私がそこにいるようで
せめて
その辛い思いだけは
くみ取れるような人になりたいと
今でも切に思っています。

少し話しはそれましたが
そんな状況の私だったし
他の誰かを信頼することができなかった私は
結婚などできないと思っていましたが

熊本地震で被災し
自分1人では
大事な娘を守りきれない
と感じたのと

どんどん大きくなる娘を
私だけの価値観で育てることの
危うさを感じたので

結婚という選択肢も考えるようになりました。

病院勤務時に
死が近づく患者さんの家族から
「このむくみはどうにかなりませんか?」
と聞かれたときに
何もできなくて悔しい思いをしたのをきっかけに

看護師としてのキャリアアップも考えて
医療リンパ浮腫ケアの研修を受けることにしました。

そこで夫と出会い
格好つけるところも当然あったけれど
格好つけずに
ありのままをさらけ出してくれる夫に

この人となら
私もありのままで生きていけるんじゃないかと思い
4年前に結婚しました。

結婚してから次女を妊娠したとき
娘は13歳で
反抗期に入っていました。
きょうだいができることに対して
その複雑な気持ちの一部だったと思いますが
私に打ち明けてくれました。

それでも、
はじめて赤ちゃんを一目見たときに
「かわいい」と言ってくれて
今ではすっかり溺愛してくれています。

そんな長女は
今年17歳になります。

かつて私が
長女を出産した年齢になりました。

長女をみて
私はこの年で出産したのかと思うと
驚愕でしかないのと

そんな私を
いろんな人が支えてくれたことに
あらためて気付かされる日々です。

それなのに
当時の私は
「ないもの」ばかりに意識が向いていて
被害者意識も強くて
いろんな人を傷つけて
本当に弱い人間だなって思います。

結婚して
何でも相談できる
信頼できる夫がいて
家族も増えて
私の過酷な状況も
少しずつ改善されていきましたが

自己肯定感の低さや
自信のなさ
メンタルの不安定さ

そして何より
私って何者なのか?
という
正解のない靄はかかったままでした。

その靄が晴れたきっかけの一つが
ウェルスノートとの出会い
そして
看護理論のひとつでもある
ケアリング理論です。

闇から光へ

ウェルスノートでは
自分の価値観を知ることができました。
自分を介して
出たり入ったりする
お金と向き合うことで
自分と向き合うことができ
本当の自分を知ることができました。

私は
これが好き
これだとエネルギー上がる
こうしたい
ああしたい
逆に
私は
これは嫌
こういうのは苦手
これを辞めたい
など
今までいかに自分の価値観を
無視してきたのかがよくわかりました。

なにが食べたい?
何がしたい?
何が好き?
将来はどうしたい?
理想はどんな?

これにはっきりと答えられるようになりました。

また
ケアリング理論を学び直して
ケアする人もケアされる人も
お互いに作用しあいながら
成長していく
ということ
そして
それはセルフケアにも当てはまることを
導き出すことができました。

自分で自分をケアすること

これは
自己肯定感に繋がります。

自分の身体をケアする
自分の感情をケアする
自分の時間をケアする
自分のお金をケアする

こういうことを重ねていき
自分との約束を守っていく

ケアされるのも自分
ケアするのも自分

だれか助けて欲しい!
の誰かに
まずは
自分を入れてあげて欲しい

あなたを守れる最初の一人は
あなた自身でなければなりません。

お願いだから
あなたがあなた自身を
大切にしてほしい。

かつての私は
自分を懸命に守るために
取った選択を
弱さだと思ってましたが

今は
その弱さを
貫き通して強さに変わったと思います。

大丈夫

あなたの人生
あなた自身で
変えることができるから

だから
一緒に
泣いて
笑って
がむしゃらに
人生歩んでいこう

わたしのストーリーと
あなたのストーリーが
交わることで
何かが大きく変化することができたなら

こんな嬉しいことはありません。

5000字を超える長文に
お付き合いくださり
ありがとうございました。









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