「忘れらない食卓」
田圃に水がはられ、蛙の声が夜辺に響き始める頃、今年のトマトが終わりを迎えようとしていた。
近所のハウス団地でトマト農家の手伝いをしていたことがあり、そのご縁で今も直接ハウスへ買いに行く。ハウスで買う新鮮なトマトはとても美味しい。
もぎたてはヘタも元気で可愛い産毛もうっすら感じ、手におさめた時どこか温もりを感じる。
でも農家の仕事をしてみて、もっともうまい!と思ったのは、暑いハウスの中で作業中、つまみ食いをするミニトマトだった。
カートにコンテナを積み低い作業用の椅子をカラカラさせ、綺麗に並んだミニトマトの房からぽろぽろぽろーともいでいく。外気よりかなり暑くなるハウスの中では、水分補給にミニトマトを口に含むこともあったのだが、コンテナいっぱいに真っ赤な宝石が輝く姿は幸福感に包まれ、喉も心も潤う。
もう幾つも前の夏のこと。だんだんと遠い思い出になりつつある。
ハウスの仕事は今でもよく覚えていて、とにかくどれもこれも楽しかった。新しい世界、少し見覚えのある世界、不思議な縁で繋がったその場所にいる事の意味を確かめながらの日々。
農作業も人間関係も新しい知識も虫たちとの出会いも、もぎたての野菜も、それはもう新鮮で鮮烈。いつまでもそれは、どこか懐かしくそしてリアルだ。
トマトは夏のイメージが強いと思う。が、この辺でハウス栽培しているものは、真夏の太陽光で土を熱消毒し、秋へ向かう頃苗を植え付けていく。可愛いこどもたちを丁寧に優しく逞しく育て、外が冷え込む冬に実り、巨大な暖房機などで温かくなったその中で少しづつ色づいていく。
年の瀬が近くなる頃、大玉トマトから出荷が始まりやがてミニトマトも収穫できるようになるのだが、冬のど真ん中に赤くなって売られているのは、こうしたハウス栽培があるからだろう。
冬のトマトはそれはまた夏のトマトとは違って深く優しい味わいがある。
そこから春に向けて一番旬の時期が訪れ、品評会なども行われる。入梅の時期になれば湿度が増し、ハウスの中は外気よりもかなり暑くなり、ひと足先に灼熱の夏がやってくる。
温暖化のせいもあって初夏でも猛暑日になる、それよりもっと前からハウスの畑の中はギラギラもんもんとしている。そうした盛んな時期に、次々トマトは実を赤くし、梅雨が明ける頃には一年かけて成長した長い長い苗を芯止めし終わりを迎えるのだ。
早めの夏休みに、土が休み人も休む。
水を張ったハウスの中は水鏡のようにそれはそれは美しい。熱消毒のため真っ白いシートが張られれば、日暮れてなお幻想的な青白な世界が静寂の中に生まれる。
新たな命の循環を待ち侘びる、そんな夏がそこにはある。
とにかくいろいろなものが巡っている、そういう場所なのだ。
トマトは私にとって、とてもとても特別な食べ物だ。
どこかでまた、繋がっていく。そんな気が今もずっと私の胸の中を巡っている。
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それは今思い出しても、とても不思議な時間だった。
まさしくトマトが繋いだ縁、そして命の環、見たことがない大きな輪。憧れのような、夢物語のような、心地ないような、なんとも不思議で素敵な体験。
トマト農家さんは若い夫婦とその先代ご夫婦、手伝いに来る友人知人で切り盛りしていた。
小さなコミュニティであっても、触れているのはほんの一部で、知らないことの方が圧倒的に多い。かくいう私も、東京から戻って少し経った頃だが、地元のコミュニティに触れ入る機会など無かった。
ハウスにはたくさんの人が新鮮なトマトを求めてやって来る。ご近所さんからお友達、そのまた友達とその噂を聞いたお友達のお友達。人の繋がりが縦糸横糸と広がって編まれていく様が手に取るように見える。
軽トラが何台も行き来するハウス団地に、のんびりと穏やかに揺れながら野菜を積んだ軽トラがやって来る。
藤塚のおじいちゃんと呼ばれるその人は、トマト農家さんちの離れて暮らす親族の方だった。齢九十を超えても元気に畑を耕し、家族に見守られながら一人慎ましく暮らす。
出会いはある日突然で、でもここへ来る誰よりも聡明で穏やかな人であった。全てを知り、すべてを包むような、優しい瞳が印象的だった。私の目にはまるで大賢人のように映った。
農家の手伝いをし始めて最初の正月に、その藤塚のおじいちゃんのうちに集まる夕食会に招かれた。その辺りにある寺院のお祭りに毎年家族みんなが集まるらしいのだが、なぜかそこに呼んでもらったのだ。誘われた時は驚いたが、行くと言った私も私だ。
おじいちゃんには娘さんが二人いて、トマト農家に嫁いだお姉さんのところの大家族、妹さんご家族が集まった。世代は四代に渡っており総勢14人ほどが一堂に会した、そこに真っ赤な他人の私がひとり。
不思議な光景と思っていたので、何度も「すみません私までおよばれしちゃって」と言っていた気がする。
おじいちゃんも農家のみなさんも初めましての親戚の皆さんも、全然いいのよー遠慮しないでたくさん食べてーと、これでもかという程に温かく迎えてくれた。
子供たちとも仲良くなり、この日ばかりは深夜に起きていられる特別な日ということもあって、賑やかにはしゃぎながら山を登った。
それが本当に不思議な時間だった。
自分がここに居ること、それを受け入れてもらえていること。この不思議な食卓の風景を思い出すとぎゅっとなって、そしてふわっとなる。こんな家族の風景があることに、今も時々胸が締め付けられる。
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ときたまおじいちゃんは、畑で育てた野菜を持ってハウスにやって来て、トマトをもらって帰っていく。
おじいちゃんの話を休憩中に聞くのはとても楽しかった。おじいちゃんの娘さんである、トマト農家のおばあちゃんとお話をするのも私は大好きで、お二人が父娘であることにとても合点がいった。
利発でそれでいて聡明な人に惹かれる。風に吹かれ丘に立ち、その知識や見てきたものに胡坐をかかない誠実な瞳の人が。
晩夏のハウスの休憩所に、西陽が溶け始めるころだったろうか。
何の流れだったろうか、夏だからだろうか。
戦中の友人の話になった。消防団などにもいた若かりし頃のおじいちゃんはとてもタフで活力があったようだった。今の穏やかな雰囲気からは想像できないが、その伸びた背筋から真摯に向き合い続けていたのだろうというのが伺える。
戦に赴く中、何人ものお友達が命を落とした話を聞いた。
その時の「死んじゃったんだよなぁ」という、言葉の柔らかさと、切なさが忘れられない。日常にころんとビー玉のように転がり、小さな光が当たっているようだった。
地に足をつき、無理せず驕ることなく、真っ直ぐ見つめて。
そういう想いと願いを大事にしながら、ひたむきに生きてきたんだと思う。
連れ添ったおばあちゃんは少し離れた施設にいるが、家族たちもおじいちゃんの家を変わるがわる訪れたりして交わり流れていく。
記憶を無くしゆくおばあちゃんを想い、田畑を耕し、野菜を届けてくれ、たくさんの家族を思い思われ、愛に尊ばれた優しい藤塚のおじいちゃん。
最後は懸命に聡明に静かに、虹の橋を渡っていったおじいちゃん。
私のおじいちゃんではない、おじいちゃん。
ウルグアイの優しい大統領を思い出した。そんな風に柔らかい慈愛のオーラに包まれたおじいちゃん。
その眼差しと言葉から、大切なことを教えてもらった。
人に何かを与えられるような、素敵な人だった。私はそんな大それたことはできない。だからせめて生み出す。生み出したささやかで愛おしいものを、わけられるような人になりたい。
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私は自分のおじいちゃんには会ったことがない。
父方の方は母すら会っていない。その母の父であるおじいちゃんは、私が生まれてくる前の日に亡くなってしまった。煙が空へ登っていく頃、私はかわりにここにやってきたのだ。
唯一、祖母のお姉さんの旦那さんが、少し遠くにいてその人を幼い頃はおじいちゃんと呼んでいた。大きな大きなコアラみたいな人だった。
祖母は早くにパートナーを亡くしたため、兄姉や周りの人にとてもよくしてもらっていた。そのコアラみたいなおじいちゃんたちも特によくしてくれていて、孫の私も懐いていたようだ。
私が知る一番近いおじいちゃん像が、そのコアラのおじいちゃんなのだ。
まだ小学生の低学年だった頃、私はモモを連れて初めてひとりでお泊りに行ったことがある。
その時の食卓には何が出ただろう。夏の記憶は曖昧だが、少し気恥しくも我が家にはなかったダイニングテーブルと椅子で食べる晩ご飯にワクワクしたことを覚えている。
その時の嬉しそうな、おじいちゃんとおばあちゃんの顔も。
妹の子を大切に我が子のように育てた二人は、その娘さんの結婚式でお花を渡した小さな子供だった私を、綻んだ瞳で見守ってくれていたのかもしれない。
お泊りした日の夕方、おじいちゃんと田圃の畦道を歩き、近くの商店でハート型のチョコがカップに入った駄菓子を買ってもらった。
今もそのチョコを見ると、大きくて優しい隣を歩くおじいちゃんを思い出す。
優しい眼差しは、血の繋がりやあらゆる差や違いを越えて、私たちを、今と未来を、心と心を、結んでいくのかもしれない。
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久しぶりの家族の食事は決まって焼き肉なのだが、いつの頃からだっただろう。年に数回集まる時に、ほんの少し気恥しさのような緊張のような、高揚がある。
楽しみだが楽しみであることは出しすぎないようにし、そして壊れもののように大事に丁寧に扱う。これは心の中の話だが。
最近タッチパネルになった焼肉店で、一番操作しやすい席に私は座り、向かいに二人が並ぶ。二人が並ぶ風景を見るとよく思い出す日がある。
国道沿いの古びた喫茶店、父と母がよく行っていたお店でマスターとも顔見知りだったが、息子が継いでそして今はもう別のお店になってしまった。
足の少し悪い強面のマスターと、結露したケーキのショーケース、何種類もある新聞とカラフルなタバスコ、木製ダークブラウンのクラシカルな椅子と低めのテーブル。
熱々のアップルパイにバニラアイスクリームと、フローズンカフェオレの様な飲み物と、照り焼きチキンサンドと。
父はエビピラフが好きで、母は塩気の強いボンゴレ。ミックスサンドに塩を振っていたこともある。母はブラジルをブラックで飲むのが好きだった。
その日は家族が別々になって、久しぶりに全員で集まった日で、久しぶりに二人が並んで座っているのを向かいの席から見ていた。
どんな気持ちだったか、言葉にするのは難しい。
その頃はその喫茶店が集合場所だったがやがてそこが無くなり、次の集合は餃子の王将になったのだがそこも色々あって行かなくなってしまった。そして焼肉屋に行くようになったらコロナがやって来た。
外食が難しくなったのには別の理由もあったが、今少しづつまた行けるようになってきた。あのまま行けなくなってしまわなくて良かった、と、夏になると思う。
子供の頃から食卓の形は、いつも変わり続けてきた。居たり居なかったりまた居たり居なくなったり。気まずかったり、楽しかったり、悲しかったり、嬉しかったり、忘れられなかったり。
暑すぎる日差しを避けて、ハウスで今年最後のトマトを2袋と、ラッピングされたTシャツを持って夕方を待つ。少しすぎた父の日に、久しぶりの焼き肉へ行く。スタンプがうまく貯まるように次の予定の話もしながら、暑気払いに少しの贅沢を不器用に分かち合う。
これでまた忘れたくない食卓の時間が、一つ増えるんだろう。
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記憶を繋いでいくとそこにはいつも家族がある。
今日は何人だろうか、あの日のテーブルは何人だったか、来週は、来年は、最近考えあぐねて未来に明るい目を向けられないこともある、でもそんな時は食卓のことを考える。
小さなテーブルを囲むその時の小さな幸せのために。
それくらいでいい。手の届く範囲を想って、愛をこめて、もう少し明日に期待していたい。