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二十歳の原点

二十歳になった。

ただ単に20回目の誕生日を迎えただけとも言えるけど、一応節目だ。お酒を飲めるようになり、犯罪には実名報道されるようになる。何かを契約する際に、いちいち保護者の確認をしなくてよくなる。

特別に浮かれるのもカッコ悪いかと思いつつ、やはり浮かれてしまう。やっぱりちょっと、「大人」になることに憧れを感じていた。

でもまあ、実際「大人」になってみたところで、昨日までの自分と何か変わるところはない。10歳の時に二分の一成人式で思い描いていたような自分ではないし、何も知らない、何もわからない、何者でもない。

「二十歳の原点」は1969年6月24日に自殺した高野悦子さんが書いた日記をまとめた本だ。

半世紀以上前に二十歳だった人。もし生きていれば今年で71歳。

今の71歳は私から見ればおばあちゃんだが、その人たちにも私と同じ歳の頃があって、同じような気持ちを抱いていたのだと知った。

自分がやりたいことなんてわからない。勉強したつもりでもまるで身についている気がしない。次から次へと自分が無知であることを痛感する。親世代への葛藤と反発。創造する人間への憧れ。世間知らずな自分。周りとのコミュニケーションがうまくとれない。誰も自分のことを理解していないのではないかという不安。何者でもない。

私は、自分の意志で決定したことをやり、あらゆるものにぶつかって必死にもがき、歌をうたい、下手でも絵をかき、泣いたり笑ったり、悲しんだりすることの出来る人間になりたい。
親は常に指導的な優位な立場にたって、子である私達をみる。私たちは未熟であり、物事にぶつかっていこうとする。親はこっちの方が近道だから良い道だから、こっちを行きなさいという。
「独りであること」、「未熟であること」、これが私の二十歳の原点である。

大学闘争の事実やその日の出来事を淡々と書きながら、恋愛や思想のこととなると、敬語やくだけた調子で自嘲する。独り言のようでいて誰かに話しかけているようにも見えるのは、ノートに対して語りかけているつもりだったのだろうか。それとも、無意識に誰かに見られる事を想定して書いていたのだろうか。

今の私たちも、常に誰かに見られているような感覚をもっていると思う。写真を見せるためにカフェに行き、誰かに話すために旅行する。少しのことでも「昨日こんなことがあってさ〜」と話す。SNSによる承認欲求の高まりがそういう事をさせているという人もいるけど、昔の人たちもそうだったのかもしれない。昔は地域社会、今はインターネット社会というだけで常に見張られているという感覚は共通しているのかも。

私と同じ年齢で、ここまで内面と向き合って、それを言葉にできていることに圧倒された。

「私は学生の時はこんな努力をしていた」
「お前たちは無知だ」
「学生時代の勉強は将来役に立つ」

不安な未来ばかりに気を取られて、今を蔑ろにすることのないように。

私の「二十歳の原点」は何になるのだろう。

20回目の誕生日を迎えただけとカッコつけてはみたものの、その20年間で気づいたこともある。自分が想像していたよりも自分には何かの才能があるわけではない。同世代と協働することは苦手だと言っても、1人でこもって何かを成しているわけでもない。私より聡明で自信があって地に足をつけている人は山ほどいて、その人たちはさらに努力もしている。そうやって人と比べては落ち込んでしまう。

だけど、ないものはないと割り切りつつ、あるものを積み重ねていくことを考えたい。

自分に甘いだけかもしれないけれど、私は私のペースで今できそうなことをやる。



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