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わたしと信仰③

の続きです。

未知への探究欲求は高まっていた。というのも、本を出版してみたいという漠然とした夢があった。その為には世の中の真実を知らなくては、という想いがあった。

そしてわたしは不思議体験をすることになる。

引き金の一つは、その少し前に、家のそばにある川を自転車で通った時。ふと横を見たら、顔だけ浮かんだ人が流されていた。

死体かと思ってギョッとした。前から来たサラリーマンと、後から来た外国人と、しばらく呆然としてしまったが、生きた人が流されていることに気づいた。そして通報して、無事救出…という出来事があった。

その出来事は何の意味があったのかを考えた。

わたしがたまたまそこを通り、真横に浮いている人を見つける確率はどのくらいなのだろうかと。わたしがそこに引き寄せられたのか、それとも溺れた人がわたしに引き寄せられたのか、はたまたその両方か、そこにたまたま居合わせたサラリーマンと外国人は、その出来事がなければ出会うことすらなかったのに、とか。

偶然か?必然か?

そんなこともあり、引き寄せやシンクロニシティについて考えている時期だった。


そして2017年の5月。それは起きた。トイレで。

ブログでシンクロニシティの記事を読んだ後だった。私たちの意識は深い場所で繋がっている?創造主って意識なのかなー、待てよ、じゃ、わたしは創造主ということ?

そう思った瞬間だった。

あっ!と何かと繋がった感覚。

そうだった!思い出した!と、わたしの中に何かが流れ込んだ。

そしてトイレから出て部屋へ行くと、一面が白い空間になって、わたしから全てのものが繋がって生えてきた。

(それははっきり見えた。起きている時にこのような現象を見るのは初めてだった)

全てが必要としてそこにあって、それらは全てわたしだった。この上なく安心安全の幸福の中にいるとわかった。

神は見ててくれた。ずっとわたしと共にいた。というかわたしと同一だった。地球はわたしそのものだった。つまりは見るもの全てが神であり、神の中にいるということだ。

わたし自身がこの空間を創っている創造主なのだと。それは自分の内側の意識が外側に反映しているのだということを理解した。

そう、それはVR空間にわたしが立ち、わたしがまわりを創り出しているということ。

これまでの苦しみも喜びも全て、わたしが求めた結果だったと気づいた。そしてその苦しみも、この体験のために必要な過程であったと理解した。(子育て期間中の苦しみはエゴの解放だった)

よく見る明晰夢で見たいものを出現させるというあの感覚。金縛りの幻覚時に、怖いと思うと幽霊のようなものが見えて、知り合いだと思い込むとその人に変わるというあの感覚…。

この世界は夢と同じような原理の空間なのだと思った。

みんなが探し求めていることはこれだった。そして世界平和になるには、みんながこの状態になることだと感じた。

が、

そうだとして、どう生きればいい?それがわかったところで、何をすればいい?わたしはどう在ればいい?

すべて分かったわけだけど、すべてが分からなくなった。

のちにこれが一瞥体験というものだと知った(悟りや宇宙の本質を垣間見る覚醒体験のこと。そしてこれまでたくさんの先人達も経験して、いろんな方法で書き残されてきたことも分かった。)そしてこれは内外反転という事象なのだということも知った。

これが人の求めているものだとすれば、世の中は正反対ではないか?

学者も教育も宗教もわざと答えから遠ざかっているのではないか?そんな疑問が出てきた。

そもそもこの世界がわたしだとするならば、ここはなんて悲惨な世界なのかと愕然とした。


しばらくは一人になっては、ぼーっと過ごすことが多かった。一人の時が一番幸福だったからだ。人と会うのが怖くなった。見える世界との乖離が埋めれなくなった。他人とどう接していいか分からなくなった。

(おそらくこのような覚醒体験をした人たちが、わたしは仏陀の生まれ変わりとか言って教祖となったり、スピリチュアル的指導者となったり、はたまたわたしは神だとか言って犯罪者となったりする。もしくは世捨て人になったり、アーティストや作家になる人もいたかもしれないし、大半は普通に生きたのかもしれない)

わたしが救世主になるって?ムリムリムリムリ…。(当時は自己肯定感はどん底でしたので)

わたしに一体何がわかるというのか、何も知らないのに。


それからはたくさんの答え合わせと何をすればいいのか、を探した。

そしてネットで辿り着いたのが大日月地神示だった。(その時の話はnote初期にこちらに書きました。)

わたしはずっと真理を追求して本に書きたいと思っていた。

でも、それは真理を現したいと思っていたからで、その本を書くのはわたしでなくても良いのだと感じた。だって真理は誰のものでもないのだから。

これまでのこと、わたしが神社に関わりが深かったのも、この混沌とした世界で、見失わずにいるためだった(稲荷はINRI、イエスのことだという説があるのを知った)

これまで学んできたこと、宗教のこと、哲学のこと、スピリチュアルのこと、全てが必要な学びで、繋がっていた。この書を理解するために。

そしてジャーナリズムも朗読も学んだ。文章の編集を学び、PTAでも広報で小学生にも分かりやすいような文章を書いていたこと、全てが必要な知識と経験だった。人生の点と点がつながり始めた。わたしはずっと導かれていたのだ、今この時のために。

だからわたしはnoteを選んで、書くことで神示を広める道を選んだ。

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そしてこのnoteを通じ、トランプ騒動やコロナパンデミック騒動から自分の自己否定感が徐々に取れてきた。闇の崩壊と、自分が光となり強く生きるということ。そして必要な情報が自動的に多方から開示されていくのを感じている。それらはこのnoteの軌跡と共に、わたしも現在進行形で変化している最中にある。

わたしは内外反転が5次元の入口であり、それが次元上昇でありアセンション であると思っている。でも覚醒体験をするのがゴールではない。自分たちの本質が霊という魂であるという真理を理解した上で、それを確信して生きることだ。

「悟り」とは、差をとること、誰かが特別であると羨んだり比較したりすることをなくすこと。対義語は「迷い」であり、真理を知ってまっすぐ生きることではないか。肩書きや権力は霊の世界では何も役に立たず、神の中では皆平等なのだ。それぞれがその人に合った道を歩んでいるだけなのだから。(輪廻転生を含めて)

悟りは何かを達成した人や聖人君子のことじゃない。(むしろ逆だ)あるとすれば俗世の欲から離れ、違う次元意識からこの世界を生きる人のことだ。

そしてどのような人生の行く末にするのかは、それぞれの選択によって天国にも地獄にもなるのだと思う。

わたしはこの書が人々を導く書であり、地球人類全ての悟りと平和を起こすものだと信じて、ここに全てを置いておく。あなたという、わたしの一部の現れのために。


(あー、書き疲れたー🤣)













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