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#7 "自分"の構成3要素


▶︎主にこの3つが、【自分】を構成する要素となっている。

①肉体
②心
③意識(自意識)


これらが【自分】に別個として存在しており、すべて重ねて認識しているのではないか、と考えています。

これはこの先も原理原則みたいな感じで登場するので、方程式を暗記する感じで覚えておいてもらえるといいかもしれません。

(ただ、心と自意識の明確な線引きが私の中でまだ微妙なため、まとめて「精神」などとして表現することがあります。また、本当は意識もすごく複雑なものなのは一応理解してますが、ここではとりあえず大勢が理解しやすいだろうものをそうとして適当に表現します)


まず本題に入る前に、『この世界は、"情報"が重なり合っており、わたしたちはそれを重ねて認識している』という話を軽くしておきます。

たとえば:目の前に【りんご】がひとつあったとします🍎

それを見て自分がまず最初にわかることは、『赤くて丸いもの』だということです。

これが自分の脳が直感的に、かつ自動的に取得する情報です。

そして「これは何か」と人に聞くと、『りんご』という名前がついている、という情報を得ます。
それを食べてみると、「酸味があること」「おいしいこも」、調べると、「木に成る果物だということ」「カリウム、ビタミンCなどの栄養が含まれていること」、もっと深く知ろうとすると「歴史」「効能」「生産状況」などがわかります。

こんな感じで、わたしたちがみている目の前の世界のすべてにはあらゆる「情報」が重なっており、わたしたちはそれを知ろうとしない限り、また教わらない限り重なった結果の表層部分しか認識できないようになっています。

これがわたしたちの世界です。


では、本題に入っていきます。

①肉体

わたしたちが認知できる肉体です。  
わかると思うので次にいきます。

②心

生きる活動において、『自分』だけが観測・理解できます。
核であり、(ここに情報を集めるのが自意識の動き?)自分の脳によって投影される世界といえるかもしれない。
情報を取り入れることで自己的に認知可能。

自分を知るための自然現象(感情など)が起こります。

(メモ:自分や生命の根源、不動のもの。
わたしたちににおいては±状態が統括されている、大まかな0。
これのみの実体が観測されることはおそらくない…けどわからない。テクノロジーが人間の理解範疇を超えまくってよくわからなくなったらできるかも)

⭐️③意識(自意識)

自分の生を認知している〈自分〉。
〈選択〉が深く関わっている。

※"ヒトが意識がある状態"のことではなく、"自分だけが認識できる自分の意識"=〈自意識〉です。

そして、"〈自分〉が〝生きている〟本体"を定義づけるとするなら、それに値するのはおそらくこれ。

直感では肉体、もしくは心が本体として生きているように思えるし、それもそうなのですが、本質的な"生"として考えるならば、この自意識こそがその主軸に値します。

※以前#1.自由編で自分を操っているのは自分という神っていう比喩表現をしましたがそれがこの自意識を差します。

このような考えに至った理由を、いくつか以下に述べます:
(が、これはあくまでとりあえずの解釈するための第一段階的な表現になるので簡単に理解したい方はゲームの例えまで飛ばしてください)

↳⑴たとえば、自分の肉体がダメージを受けると意識がなくなることがある。このとき肉体が生きていても自分自身はそのときの記憶がないため自分において情報がカットされてしまう。
その意識のない肉体を人が助けてくれたとして、治癒し、人からそのときの自分(肉体)の様子を聞けばそのときの情報を確認はできるけれど、自分においてそれが本当であるという証拠はつかめない。映像などでみても、覚えていないため自分において確定要素はつかめない。(が、もしその映像を自分自身が認識、確信、決定すると情報の一部とはなる。)

⑵心が傷ついたとき、精神的疾患とされるような症状がでたとき、感情に任せて理性的でない行動をしたとき などに、どこかで「なんで自分はこんなことしちゃうんだろう・思っちゃうんだろう」「こんなの自分じゃない」という自分がいる・または出てくる場合がある。(思考力があまりなくてこれを当たり前だと捉えていれば考えない)この冷静な、また冷静と不安が入りまじるような自分の心の現象、それによる行動について思考をする自分は、自身に起きた現象を俯瞰している状態となる。つまり本来の自分ではない自分という存在を認識をしているので、"本来の自分"はここにある。

⑶わたしたちは記憶を感じられる生物なので時間が一方通行(過去→未来)だと認知しているしそこだけを意識しているとそうとしか思えないけれど、こと思考をすると今現在から過去に戻り昔を認識することは可能であり、自分の人生や世界そのものを神の視点的、第三者の自分として俯瞰し、時間を切り離すように観測することも可能。相対性理論や宇宙にはそもそも時間が存在しないのではないか、というような理論の構築、その理解もできて、一方通行の時間を感じながらもうらはらに時間というそのものを俯瞰することもできる。これが自分、わたしたちの精神構築における情報ともなる。なので意識は肉体(地球物理)に完全に依存していないといえるのではないか

⑷肉体は基本的にパターン・パターン学習を行ったりして自然現象に逆らえない形で動いている。そして心のしくみとしてもそれがあり、ここに自分の意思・意志はとくに介在していない・できない。
たとえば:
〈パターン〉食事をしないと肉体が保持できないので自分の意思とは関係なしになにかを食べざるを得ないし、また排泄もそれと同じ。
授業中などに突然ガラッとドアが開くと一斉に視線を向けてしまう反射行動も、欲しいもの(獲物)を見つけたら手に入れたくなるのも、生存本能として元々備え付けられた自然的パターンといえる。
心的にもなにかしてもらったと感じると返さなければいけないと感じたり、悪を成敗したいと思う、信じているものが破壊されるのを嫌がる、メンタルやホルモンバランスが崩れ感情的になるのも意思に反する現象と言える。

〈パターン学習〉食器洗いをしながら考え事をして意識を別(自分の思考・自意識自身)に向けている、みたいなことが可能なのは、肉体が"皿洗い"をパターン学習できているから。
以下、わたしたちにおけるパターン学習例:
・肉体において
たとえばわたしたちは箸をはじめて使うときそこに意識を集中させて何度も練習するが、扱えるようになったらそれからは特に意識せず持って使っているはず。意識して学習したものが無意識下(低次脳下)におり、それからは意識せずとも生活が可能になっている。
→意識が習得した・学習終了と判断すると意識は別のところに向いて生きはじめる。次第に、意識が向かないため記憶に残らなくなっていく。→意識が向いているところだけが主な〈自分〉に蓄積されていく情報となる
・心において
怒られるのがこわい、嫌だ、と感じると嘘をついて身を守ろうとしたり、人前では嘘でも笑っておいた方が社会的な自分は守られ物事は滞りなく進むと学べば『嘘をつく』がパターン化したりする
・言語において
人間同士の会話はほとんどがパターン学習によって行われていて、場面×それに適合する言語 のようなパターンを脳が学習して、半自動的に選択する形でわたしたちは会話をしている
(ただ、根本的なところをいうとわたしたちは誰一人として人と会話できていない。言語は意思伝達・情報伝達ツールであって意思疎通ツールではないから。人間同士が意思疎通することは不可能。(ただ錯覚〜とても精度の高い錯覚をする、みたいなことはできて、そこに繋がりを感じられると物事が滞りなく進むと思えるため安心する、のような脳、心のしくみ?がある。))

ここがもし物理学と関係するなら、おそらく量子が関係しているのではないかと思う。



💡この理論について、"ゲーム"に置きかえて説明してみます。:

ゲームをプレイしている自分を思い浮かべてみてください。

"コントローラーを握っている自分"【自意識】で、"それによって動く"のが【肉体】のアバター、みたいな感じです。

コントローラーを自分が操ることでアバターが動き、ゲーム世界を遊ぶため学習をしていきますね。はじめはアバターの動かし方に慣れず手先がおぼつかなかったり敵をうまく倒せないことがあっても、「こうすればいいんじゃないか」と考え試行錯誤し何度も挑戦することでアバターのレベルが上がっていったりします。

このとき、ゲームのアバターのレベルが上がったと思えるしそれもそうだけれど、実際はそのアバターをコントロールしている自分自身の学習レベルが上がっているといえるはずです。

そしてゲームを行った自分自身の頭の中にはそのゲームの情報が反映されており、「あそこに隠し通路がある」とか「このように操作すればうまくいく」というような情報から、「あのステージやキャラが好き、嫌い」とかいうゲームをクリアするには特に関係のない情報まであるはずです。

そのゲームクリアに必要な情報この現実世界における事実で、必要のない情報自分の感情や主観に基づいた感想です。感情や感想は自分を知ることには役立ちますが、その感情で突っ走ることなく、どれだけ理性的で冷静な自分、思考力や分析力、知識があるかでそのゲームをうまく進められるかが決まるのではないでしょうか。

これがわたしたちの現実世界とも同じである、これが複雑に(けれど切り分けてみると実は単純に)絡んでいるのがこの世界だ、みたいな話です。

この現実世界の問題クリアに必要なのは事実、現象などを論理的に理解しようとすることで、それは文明の発達、社会の発展、また(表面的)自己成長にもつながります。が、

この現代において、〈心〉=自分 というものをそれぞれが理解しようとしていないと、世界も社会も永遠にうまく回ることはないと言っていいのではないかと思っています。現に今世界的にもそうなってきているように思います。
〈心〉は世界や社会、そして自分に無下にされていると感じるとどんどん破滅的な道を選ぶようにできてしまっているので、よくわからないまま時間や世界だけが進んでいくと結果全体によくない影響を及ぼします。

なので、論理的にものを考えられることと合わせて、心、哲学的なものへの理解もすごく重要になってきます。

●自分における自然設定と"自由"部分

基本的に、"「肉体」は生きようとする"、"「心」は守ろうとする"、を念頭におくパターン学習を行う本能・自然設定みたいなものがあり、そこに自分の意思や意志は介入できず、自意識そのものはここに基本は依存しています。

思考をしたときなどにのみ、その依存を逃れます。

つまり、わたしたちの主な認識の"生"の大部分は自動運転システ厶の中にある、といえ、わたしたちは基本的には世界・肉体・心の自然的な現象に依存し、流されるような形で生きている、ということです。
ここが不可逆的なはたらきをしていて、ここに精神における自意識的な自分は抗えません。つまり自由がききません。

そこを元手にした思考や想像部分が〈自分〉というものが生きている本質で、ここだけ自由がきいており、可逆的なはたらきをしています。

また、〈自分〉にとって、

「肉体」は「"世界"の学習媒体」で、
「心」は「"自分"の学習媒体」のような形となります。

おそらく物事に対して興味・疑問・思考・理解をよくする、できる人は脳の高次脳領域がよく発達し問題解決能力が養われていて、不可逆的なはたらきをする世界を面白がって楽しんでいるのでここにあまりストレスを感じず、それに対し物事をよく悲観的にとらえてしまう場合は世界そのものの認知がストレスになるのでそれにともなって心の学習に支障がでるのではないか、とも考えています。
ただ、悲観的に考えることは心の本質を捉えているともいえるので、心というものに対しての認知能力は高いといえます。


そして心と意識は相互で深く繋がっていて、常に情報を共有したり交換しているのではないか、のようにも考えています。ここを自分が捉えられている場合と、いない場合があり、いるところだけが自分の認知情報=自意識になります。


(一応まとめ的なメモ:『なにかを嫌う』ということがあったとき、動物的本能として集団生活を脅かす異端者を排除したがる『嫌い』の場合は進化の過程で培われた動物としての自然的現象であり、バカが嫌い・ダサい人が嫌い などのような個人的データによる『嫌い』は心の自然的現象。どちらも半自動的に蓄積されたデータから自然的に導き出てしまうもの。
その中で日常生活を送り変わっていく時代、社会、環境などからこれらをよくないのではないか、と思考し、その中で考えや価値観を改めることもできる。このような学習が幾度となく繰り返され、選択を行うことで自分が自覚できる〈自分〉は構成されていて、このすべてを統括したものが【自分】となる。
この自然的なデータから学習することができないと駒のような人生になるので心がストレスを抱える?)

(数学的メモ:事実・感想、感情は自動的に足し算されるような形で認識されるが、実はかけ算のようになっているものなのではないか。
また、もしかするとIUT理論とつながるかもしれない)



では次、この3要素別の「目的」です ▶︎

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