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カオスに陥る(エンター・ザ・ボイド感想)

『エンター・ザ・ボイド』(2009)ギャスパー・ノエ監督
面白いしこれこそ映画館で観たい映画。めちゃくちゃおもろかった。

冒頭の視点でこの映画が主人公の主観で物語が進むことを示す。鏡に映る自分を見る見事なショットでは、観客は主人公を見ているのではなく姿形は違えどそこに自然と自分自身を投影せざるえない。この時点で主人公と観客の間に存在しているはずの境界は乱れ始めておりこの映画のあらゆるカオスに陥る予感を想起させる。第三の壁を越えるとはよく言うが、キャラクターも観客も互いに壁を超えている感覚、最後まで見た上で言うがまさに一つのシネマエクスペリエンスとして凄まじい演出だった。
そこから(劇中によると)「最大のドラッグ」である死を経て主人公はあらゆる境界を超えてゆく。殺されたその時間、空間を飛び越え友人や妹の様子が映し出される。さらに過去にトリップし、現在までの主人公の人生を走馬灯的に映されていく。また、ただ時間が一方的に流れるだけではない。(電話をしつつ妹が目の前で寝ているシーンが顕著だが)構図やキャラクターのアクションの共通性を過去の記憶に見出し、時間と空間を超越しながらも、まるで同じこの瞬間に全く等しい価値で存在しているように見せるシークエンス。映画『メッセージ』のような時間と空間の捉え方である。『メッセージ』との共通点として、円環のモチーフが挙げられる。主人公(というかカメラというか視点)は度々円形の物の中に入る。劇中何度か言及されているように輪廻転生の話からこのようなモチーフが使われている。これは同時に死後の主人公の視点が体現している過去、記憶そこに映された空間が同一に映し出されていることのモチーフだろう。
また、時間や空間だけではない。母親や妹、家族への愛と異性への愛が混合している様子。sexシーンでまるで他人の主観になるシーン。本来境界が惹かれているはずの内なるさまざまな感情や他人の存在が乱れひとつになり、それは冒頭観客との境界を乱したこの映画では観ている側もただでは済まない。乱れて一つの円環となった空間や時間、映画内の人物、その感情に観客も巻き込まれている。
ラスト、ラブホテルでの幾つものsexシーンはこの映画で描いていたあらゆる概念が乱れ一つになるモチーフでありそして、主人公は輪廻転生する。ある種悟りに近い状態から、この映画は臍の緒を切って終わる。まるで円環となったあらゆる概念を断ち切るように。そして主人公は、観客はまた「無」に入り(enter the void)、現実に産み落とされることになる。
大変面白い映画でした。

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