勝手に書評|國分功一郎|暇と退屈の倫理学
改めて読み直した個人的な理由
数年前に一度読んだことのあるこの本を、今改めて読み直している。この本を読んだのは、まだ学生だった2017年頃だったと思う。以来、書店では幾度となく見かけてきたが、「退屈をどう生きるか、どう暇でいられるかみたいなことが書かれていたなあ」とぼんやりと思い出すのみだった。最近は文庫版が出たこともあってか、どの本屋にも置かれていて、よくおすすめされて平積みされているのも見る。その点、とりあえず面白い本みたいな位置づけになっているような気もがしなくもない。
とはいえ、本を再び読み直したのには別の個人的な理由がある。ここ最近(といっても、いつからかは明確に分からない。1ヶ月かもしれないし、数年かもしれない)、色々なことがうまくいかないと感じていたのだが(そして今も)、特に、何もすることがない、何もできることがないといった無力感を感じることが多かった。この本を読めば、それは退屈にあたるのだが、この本のことなどすっかり忘れていた自分は、この辛い状況から抜け出すために、何か熱中できることを探していた。やりたいことはたくさんあるけど何をしていいか分からない、もっと何かに熱中したい、何もできていない、そういう考えを巡らせては悶々とし、苦しんでいた。
ついには、2ヶ月ほど仕事も何もしない時間を過ごし、所持金も尽きた。そしてある夜、一人でドライブしていた時に、この本のことを思い出した。今、自分が苦しいのは、何をやっていいか分からず退屈しているからなのではないか。そう思ったら無性にこの本を読みたくなり、偶々通りかかった田舎町の明かりの着いたカフェバーに入り、店内にはお酒を飲みながら熱く語り合う二人組の男性もいる中、ホットコーヒーを一杯頼み、この本を読み始めた。
こうして読み始めると、自分が悩み悶々としていた苦しみが少しずつ理解でき、解けていくような気持ちになった。そして、なぜあんなにも本屋で平積みされていたのか合点がいった。この本は、良書だ。しかし、諸刃の剣のようなところもある。哲学書として哲学者の文章を引用しながら論理を組み立て、暇と退屈の謎を解き明かしていく一方で、テーマが日常的なものであり、かつなるべく平易な書き方もされていることから、自己啓発本のような側面もある。哲学的な議論を適当に読み進めて結論ばかりを追っていくと、私たちは(暇と退屈の中で)どう生きればいいか、という指南書のような読み方もできてしまう。もちろん、哲学書としてもそれはそれで悪くないと思うのだが、読み方によっては、あるいは勧め方によっては、読者に都合のいいように読解され、都合のいいように引用されてしまうように感じた。かくなる自分も、自分の状況と照らし合わせて、自分の現在の状況からどう抜け出せるかという読み方をしたが、そうした受け身的な読み方のみに傾倒してしまうと、自分で考え答えを見つけ出す余地がなくなってしまう。
そのことを少しだけ念頭に置きつつ、本書の内容について見ていきたい。
熱中できることを見つけたい!という悩み
1章では、まさしく自分が置かれている状況〈退屈〉についての問いが提起されていた。
著者は、ラッセルとパスカルを引用しながら、退屈が人間にとって共通の苦しみ=「病」であると述べる。そして、その苦しみから逃れる、すなわち気を紛らわせてくれること、気晴らしを人間は行ってきたのだと。ウサギ狩りはウサギがほしいから行くのではなく、気を紛らわせてくれる騒ぎをしたいからいくのである。多少負荷があり、熱中できるものなら尚よい。だから、これからウサギ狩りに行こうとする人に、ウサギを渡しても喜ばれないのは当然である。そして、この問題は現代でも同じだろう。私たちは、何かが起きること、熱中できる何かが見つかることを心の奥底で望み、また何かに熱中している人を羨ましく思う。
定住すると退屈する?
2章では、人類の定住化プロセスについて、一般に考えられている遊動→食料生産→定住という順序ではなく、遊動→定住→食料生産という順序であったという考察から始まる。食糧生産は定住の結果であって要因ではないということだ。ではなぜ遊動生活を放棄したかといえば、詳細な検討は省かれているのだが、一つには気候変動によって森林化が進み、一度の狩りで大量の食糧を手に入れられる大型動物が減少したことが挙げられている。
ここで重要なのは、元々400万年も遊動生活をしていた人類にとって、1万年しか行われていない定住は不自然なものであったということだ。元々遊動生活で培われ発揮されていた人間の本源的な能力が定住生活では十分に活かせない。その結果、私たちは退屈するのだという。
暇をどう生きるか?
3章ではようやく、暇と退屈の違いについて述べられる。
そして、現代に生きる私たちは、暇な時間の過ごし方を知らないという。というのも、近代化以前は、大衆は生きるのに必死で暇な時間はほとんどなく、暇を持っていたのは有閑階級だけだったからだ。しかし、暇を生きる術を知らないからといって、退屈にはなりたくない。そこで何が起こったのか?レジャー産業の勃興である。
会社のために労働し、余暇には消費する。この消費はどこかの会社の利益となる。そしてその消費への欲望は、その会社によって作られたものである。こうして人々は労働のみならず、余暇までも搾取されるようになった。
決して満たされない消費欲
4章では豊かさの考察から始まり、浪費と消費の違いについて述べられる。
浪費と消費の違いについては様々な定義があると思うが、ここでは、浪費は物そのものを受け取ることであり、限界がくるのに対して、消費は物そのものではなく、そこに附随される観念や意味を受け取るものであり、限界がないと述べている。どういうことか?本書で説明されている例によれば、浪費はある食べ物それ自体を食べることであり、お腹がいっぱいになればそこでストップする。他方、消費とは、例えばテレビで紹介された人気料理店に行くことで、そこに行ったという観念を手にすることであり、そうした観念の消費には限界がこない。そうであるがために、余計に人は余暇を搾取されてしまうのだろう。
さらに4章では「疎外」という哲学的概念についても考える。その代表的論者は、資本論などで知られるマルクスである。マルクスやアレントのマルクス批判を参照しながら、著者は労働における疎外を考察する。ここでは疎外論そのものよりも、その語り口が着目される。端的に言えば、(マルクスたちが議論している)労働という概念自体が近代化の中で生み出されたものであり、本来性を探し求めていても、その概念的フレームワークから抜け出すことはできない。(例えば、労働を減らして余暇を増やすべきだと言っても、現に余暇でさえ搾取の対象となっている。)そうではなく、本来性なしの議論が必要なのであり、そこには創造性が必要だと述べている。これが次章以降の布石となる。
ここまでが全8章あるうちの、前半の4章である。とても勉強になったので、要点を残しておきたいと思い、駆け足で見てきた。残りの4章については、別の記事にして書こうと思う。
後編へつづく↓
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