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勝手に書評|國分功一郎|暇と退屈の倫理学(後編)

前編はこちら↓


ハイデッガーの退屈論:3つの退屈

本書の第5章では、ハイデッガーの退屈論が紹介されている。ハイデッガーによれば、退屈には三つの形式があるという。それは、
①何かによって退屈させられること
②何かに際して退屈すること
③なんとなく退屈であること

①の何かによって退屈させられることは比較的分かりやすい。本書では電車を待つことが例として挙げられている。ここではつまらない授業を例として考えたい。つまらない授業では、私たちは退屈し、退屈な授業だったと終わってから思う。そういう時、私たちは時計をしきりに見る。あと30分もある、まだ5分しか経っていないといったように。ハイデッガーは退屈の第一形式において、何かによって退屈させられているとき、その何かがもつ時間にうまく適合していないと述べている。私は授業の時間にうまく適合しておらず、授業の時間の流れと私の間にはギャップが生じている。このとき私は、教室に〈引き止め〉られ、〈空虚放置〉されている。

私たちは何かによって退屈させられているとき、その何かがもつ時間にうまく適合していないと言っているのである。つまりある物とそれに接する人間がいるとして、両者の間の時間のギャップによってこの第一形式の退屈が生じるのである。何かによって退屈させられるという現象の根源には、物と主体との間の時間のギャップが存在している。それによって〈引きとめ〉が生じ、〈空虚放置〉される。

同書、pp.224-225

では第二形式は何か。これが一番理解するのが難しかったが、本書を読み進めることで感覚的に掴めた気がした。第二形式の特徴は、自分が空虚になることである。周りには自分の興味のそそるものなどがあり決して空虚ではないが、その周囲に調子を合わせたり、自分の身を周りの雰囲気に委ねることで、時折自分の中に空虚が現れてくる状態のことをいう。ハイデッガーはパーティを例にあげている。パーティーは決して退屈なものではなく、友人たちとも会話を楽しんでいるが、その最中、ふと空虚が訪れ、ふと退屈だと思う。言葉では言い表せないが、自分が空っぽになったような状態で、なんとなく宙ぶらりんになったような感じだろうか。

第二の形式の場合には、単純に空虚が満たされぬままになっているということではなくて、空虚がここで自らを作りあげ、現れ出て来る。簡単に言えば、外界が空虚であるのではなくて、自分が空虚になるのだ。周囲に調子をあわせる付和雷同の態度で投げやりになり、自分をその雰囲気に任せっぱなしにする。そういういみで自分自身が空虚になるのである。ここには第一形式とはまったく異なる〈空虚放置〉が見出される。

同書、p.235

そして第三形式は、退屈の究極の形である。何一つ言うことを聞いてくれない状況の真っ只中に置かれることであり、「何もないだだっ広い空間にぽつんと一人残されているようなものである」とハイデッガーは述べる。何一つうまくいかず、何をしていいかも何ができるかも分からず、何もできない気になる。しかし、ハイデッガーはその上で、周囲に対する不可能性と対峙することは、自分の可能性と向き合うことであり、その可能性とは「自由」だと述べている。つまり退屈によって「自由」と対峙することができ、さらにそこから「退屈する人間には自由があるのだから、決断によってその自由を発揮せよ」と述べている。これがハイデッガーの退屈論である。

最高度に「深い」退屈。退屈の第三形式。それは何か? 読んでいると驚かずにはいられないのだが、ハイデッガーはとくに準備もなく突然答えを出すのである。 なんとなく退屈だ。 これが退屈の第三形式である。

同書、p.244

以降の章は、この三つの形式がベースとなって議論が展開されていく。5章だけを読めば、ハイデッガーの言わんとしようとしていることも分からなくはないし、最後は自由や決断だと言われれば、そういう気にもなる。もちろん、著者である國分はこれに異議を唱える訳であるが。


環世界から考える

6章では退屈が環世界という切り口から捉えられる。環世界とは、エストニア生まれの理論生物学者ユクスキュルが提唱した概念で、すべての生物は同じ世界ではなくそれぞれの世界を生きているというものである。

今私たちが認識している世界は、人間による認識であり、さらに私による認識である。例えば、ダニには視覚がなく、哺乳類の出す特定の物質の匂いというシグナルに反応して行動を起こす。詳細は省くが、大雑把に言ってしまえばダニの感覚している世界と私が感覚している世界では、空間も時間も全く異なるものである。時間については、起きている時と寝ている時の違いを考えれば、時間の流れ方が主体によって異なることも想像がつく。

ハイデッガーは、この世界は動物だけのものだとし、人間には環世界を認めようとしなかった。環世界に生きるとは、特定のシグナルに対して特定の反応を起こす〈とらわれ〉の状態であり、対して人間は世界そのもにのに関わることができると考えたためだ。その根底には、人間と動物を区別しようとするハイデッガーの意図が垣間見える。

対して著者は、以下のように述べる。

人間は環世界を生きているが、その環世界をかなり自由に移動する。このことは、人間が相当に不安定な環世界しか持ち得ないことを意味する。・・・・・・環世界を容易に移動できることは人間的「自由」の本質なのかもしれない。しかし、この「自由」は環世界の不安定性と表裏一体である。何か特定の対象に〈とりさらわれ〉続けることができるなら人は退屈しない。しかし、人間は容易に他の対象に〈とりさらわれ〉てしまうのだ。

同書、pp.298-299

ここから著者によるハイデッガー離れが加速し、本書の結論へと向かっていく。

奴隷にならないこと

ハイデッガーは自由という自らの可能性に向き合い、決断をすることで退屈から解放されると述べた。しかし著者によれば、決断をすることも結局奴隷になることの第一歩でしかないという。どういうことか?

5章でハイデッガーの三つの退屈の形式が紹介されたが、ここで重要なのは、第一形式も第三形式も本質的には類似しているということである。なぜ人は、つまらない授業で退屈するのか?それは、つまらない授業のせいで、時間を無駄にしていると感じるからである。それでは、なぜ時間を無駄にしてはいけないのか?それは、日々の仕事など、より「有意義」だと考えていることに時間を割きたいからである。実は、この時点でこの人は、日々の仕事の奴隷になっているというのだ。つまり自分の仕事をしなければいけないと思っているからこそ、つまらない授業が時間の無駄に、退屈に感じる訳である。そしてこの時、本人には、つまらない授業から何か興味を引くものや面白いことを見出そうとする(見出すではない)余裕がない。

では第三形式で自由と向き合い、決断をした人間がどうなるかと言えば、結局は決断の奴隷になるだけなのだという。つまり、自分の仕事や使命を決断によって自ら決めるだけで、結局は自らが決めたことの奴隷になってしまうのだという。

そしてここから出てくる答えは、人間らしい生とはハイデッガーの言うところの退屈の第二形式であるということだ。

人間は普段、第二形式がもたらす安定と均整のなかに生きている。しかし、何かが原因で「なんとなく退屈だ」の声が途方もなく大きく感じられるときがある。自分は何かに飛び込むべきなのではないかと苦しくなることがある。そのときに、人間は第三形式=第一形式に逃げ込む。自分の心や体、あるいは周囲の状況に対して故意に無関心となり、ただひたすら仕事・ミッションに打ち込む。それが好きだからやるというより、その仕事・ミッションの奴隷になることで安寧を得る。

同書、p.318

6章で紹介された環世界は、人間においては、生きていくなかで形成され変化していくものである。そこで重要な役割を果たすのが習慣である。習慣がなければ、人間はやることなすこと全てにおいて、毎回振る舞い方を考えなければいけなく、それは煩雑で苦しいことである。習慣はそうしたことに対して、考えなくてすむようにするためのものである。そうして人間は、習慣を、習慣から環世界を形成しながら生きていく。もちろん、環世界は時に部分解体され、再生成されることもある。

しかし端的に言ってしまえば、習慣のなかを生きていくことは退屈なことである。そこで気晴らしを行って退屈をごまかしたり、退屈のなかを生きたりする。これが第二形式であり、(暇と退屈という切り口から見た)人間の生である。

対して奴隷になるということは、この人間の生から外れることであり、奴隷になった時、人は世界を受け止める余裕がなくなってしまう。それは淋しいことだ。だから余裕(=暇=贅沢)を持ちつつ、時に退屈と向き合い、時に気晴らしへと逃げることそのもの(ハイデッガーはこれを退屈と定義したが
)が、実は退屈とうまく共存しているということなのだろう。退屈と感じることは決して悪いことではなく、退屈と感じながらも、何かをするということもまた上手な生き方なのだと私は受け取った。

人間はおおむね退屈の第二形式の構造を生きていると指摘することの重要性がここから出てくる。そこには投げやりな態度もある。だが同時に、自分に向き合う態度もある。つまりそこには、考えることの契機となる何かを受け取る余裕がある。・・・・・・しかし、第三形式=第一形式に逃げ込んだ人間は、受け取れる可能性のある対象すら受け取れないのだ。奴隷になってしまっているからだ。

同書、p.347

本書を通読して

先ほど、「退屈と感じながらも、何かをするということもまた上手な生き方」だと書いた。しかし、書いてみて、これは自分に言い聞かせているな、とも思った。つまり、どこかにちょっとした違和感というか、無理を感じた。

退屈と感じながらも、と書いたのは、退屈とは生きていれば存在するものであるというのが本書の1つの結論であり、その中で退屈に振り回されて奴隷にならないようにしなければならないと自分で思ったからだった。しかし、どうもそれは難しいように感じる。

私の場合は、何かに熱中している時は、四六時中そのことで頭がいっぱいで、退屈と感じる時間はほとんどなくなる。この状態は、著者のいうところの奴隷になっている状態で、確かに生きているのが楽だし、楽しいとも感じる。対して、その熱中の糸がぷつんと切れた時、今度は反対に、四六時中なんとなく退屈な気分が続く。時間はあって色々なことはできるけれど、どれもやる気にならず続かない、といった具合になる。

そして、今回この本を読んだのも、暇や退屈について考えたのも、この書評(みたいなもの)を書いているのも、全て後者の時である。つまり、何かに熱中している時はそんなことを考える必要もなく、退屈な時に退屈のことに関する本を読み、どうにかしてうまく付き合おうとしている。こうしたことはヨーロッパの若者と途上国の若者の違いの事例とも少し似ているかもしれない(著者は批判的にこれを書いているが)。何かに熱中している時は、退屈について考えることも思うこともなく、ある意味幸せなのだと。もちろん、著者はこれを一種の麻痺状態として書いている。

退屈な時に、退屈なことと向き合って苦しくなり、この本を読んだことも著者に言わせれば、気晴らしに過ぎないのだろう。しかし私はどこかで、「自分の思考によって退屈から抜け出す」ことを期待し、その手がかりが得られるのではないかと思ってこの本を開いた。そして、本から受け取ったことは平たく言えば「退屈は人間らしさの一部で、退屈とうまく生きよう」ということだった。

私は少し残念だった。この本を読めば、何か今の状況に対する答えに近いものが得られると思っていたからだ。しかし、それは冒頭にも書いたように、私が極端に受け身で、指南書を読み始める時のようにこの本を手に取っていたことの裏返しに過ぎない。「自分の思考によって」と言いながら、本書に大きく助けを求めていた。


思えば、私は本を開く時は「今自分が頭を悩ませていることに対して答えが見つかるかもしれない」という気持ちでいることが多かった。特に頭を悩ませて苦しい時はその傾向が強いが、思えば本はそんな万能薬ではない。ショーペンハウアー(『読書について』)も述べていたように、読書は他人の思考の海を泳ぐようなものなのだ。そんな海にぷかぷかと生身で浮いても、他人の思考の波に流されてしまうだけである。だからせめて自分の小さな舟に乗り、自らオールを漕いで進む方向を舵取りする必要がある。

そして、ここで言う舟こそ、形成された自分の思考だと思う。つまり、悩みながらもたどり着いた自分なりの考えである。それを手にして初めて、本の海をしっかりと進んでいけるように思えた。

自分なりに本書の結論を解釈すれば、退屈だからと言って、あるいは気晴らしだからと言って思考や考えることを放棄する必要はない。また、退屈から抜け出すことを諦める必要もない。何かに熱中することは必ずしも奴隷になることとは限らない。ただし、熱中は四六時中、一生涯続くものでもない。熱中の糸が切れた時には退屈の空気が流れてくる。そうした時、退屈と向き合うということは必ずしも、退屈なままいるということではない。退屈と向き合い、退屈であることに気づき、気晴らしをすることもまた(さらに言えば奴隷になることもまた)、退屈と向き合うことである。そしてその時に、余白を失ってまで退屈から逃れようとしないことが重要である。余白があれば、そこで休み、自分で考え、何かに気づき、何かと向き合うことができる。本書を読んで得られたのは、この気づきであり、こうした気付きの積み重ねが、私たちの習慣をつくりだす(大げさに言えば環世界をつくりだす)一助となるのだと思う。

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