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勝手に書評|希望という方法

宮崎広和著・訳(2009)『希望という方法』以文社

本書は2004年にスタンフォード大学出版局より出版された、"The Method of Hope: Arthropology, Philosophy, and Fijian Knowledge"を著者自身が翻訳したものである。著者はオーストラリア国立大学で人類学を学んでおり、本書は彼が1994年から96年までフィジー諸島で行った人類学的調査が土台となっている。

 本書のユニークさは、一般的な人類学研究のようにフィジー諸島における地域社会やその文化を扱うことにとどまらずに、そこから得られる「方法としての希望」という枠組みを、人類学や哲学という学問体系にも当てはめてある種メタ的に考察・言及しようという点にある。本書ではフィジー研究と人類学史・哲学史的な研究が並行して進められ、全体として重層的で立体的な構成となっている。この構成そのものが本書を独創的で読み応えのあるものにしている。

それでは本書の主題でもある「希望という方法」あるいは「方法としての希望」とは一体なんだろうか。

 一般的に希望という単語を聞いてイメージするのは、未来に向かって何かを実現しようとして持つ期待のようなものだろうか。一瞬、一般的なイメージを考えた時に、希望とは人びとの姿勢なのか感情なのか、と考えてみたが、希望単体でみると、それは持ったり抱いたりするもので、その人自身の特性を表すものではないのだと考え直した。何か困難な状況、例えば震災など、において望ましい未来に対して抱く期待のようなものであり、その実現可能性はさておいて、それがあるからこそ頑張れるみたいなものなのではないかと思う。そう考えると、希望は主体が抱くものであると同時に、どこか外在的なものなのではないだろうか。

 そんなことをつらつらと考えてみたが、本書の立場に立ってみればこうした考察は希望の本質に迫るためにはあまり意味をなさない。本書において、希望とは、「知識を未来へと方向転換するための手法」として定義される。こうした「方法としての希望」というスタンスに立った時、もはや希望とは研究することのできないもの、強いて言うなら実践するものへと転回する。希望について考え、知ろうとすることそのものが(方法としての)希望だというのだ。

希望を知識の方向転換の方法として定義したとたん、それは分析不可能なものとなり、分析と希望との距離は消滅する(p.6-7)

本書では、この「方法としての希望」を、フィジー諸島の先住民系フィジー人たちの、先祖の土地や自らのアイデンティティをめぐる振る舞いの中に見出そうとする。その上で、方法としての希望を、人類学や哲学という学問体系へと平行移動、反復複製させる。そうすることで、方法としての希望を実践し、人類学の地平を開かれたものにしようというのである。

知の方法としての希望は、〈既に - ある〉ものについての達成感、あるいは〈もう - ない〉ものへの郷愁といった形で過去に向いた知識を、再び未来へ、〈まだ - ない〉ものへと向かわせる。(p.4)

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