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11 幻覚作用

「それタバコじゃあ、ありませんよ」

「えっ」

 思わずかけられた言葉に過剰に反応してしまった。指先に挟まれたそれはタバコではなく鉛筆だった。

 ぼうっとしていたせいなのか、それとももっと別の理由のせいなのか。ライターであぶりかけていた鉛筆を机の上に置いて、今度は正真正銘のタバコに火をつける。懐かしい紫煙。これで何本目だろう。灰皿に転がる山を数えることも面倒だった。

「もう、幻覚症状がでてるのね。薬の飲み過ぎです」

「どうしてそんなことがわかるんだ。僕が何粒飲んだのかも知らないくせに」

「あなたのことなら何でも知ってるわ。朝は私の作ったご飯を食べて、食後に医者じゃない人に貰った薬を五粒から十粒飲む。昼はコンビニでお弁当とフルーツゼリーを買う。夜はまた私の作ったご飯を食べて、また食後に医者じゃない人に貰った薬を五粒から十粒飲む」

 その副作用で幻覚が見えるようになるのよ。妻は何度も言い慣れているかのようにすらすらとそう言って、ゴトンと目の前に水の入ったコップを置いた。ぼろぼろのエプロンに申し訳なさがこみ上げる。ぼさぼさの髪にも。苦労をかけているのが、ひしひしと伝わった。

 僕は覚えていないけれど、きっとこれは毎日のように行われているのだろう。よく見ると芯の先が蕩けた鉛筆が何本も転がっていた。なぜこんなに大量の鉛筆が。僕が使うからなのか、妻が使うからなのか。とにかく、この先の溶けた鉛筆の数が、僕が幻覚を見た回数なのだろう。

コップの水を飲み干して、一息つく。鈍い頭痛にくらくらしながらも時計に目で探す。今は一体何時だ。ヤニで黄ばんだ壁には何も掛けられていない。カレンダーすらもない。破れた障子がなんとも不吉だった。

「障子は張り替えないのか」

「先日業者を呼んだけれど、返事がまだ来ていないのよ」

 時計は身近なところに置かれていた。卓上のデジタル時計が時刻を示している。深夜三時二十五分。健康的な時間とはいえない。どうして僕は寝ることもせずにタバコを吸って、妻は起きているんだ?

「君、寝ないのか」

「あなたが寝ない限り寝ないわ」

 そんなにも愛してくれているのか。さすが、僕の妻。名前がパッと出てこないが、この人は心の底から僕を愛してくれているのだろう。人から愛されていると実感できる瞬間ほど幸せなものはない。吸うタバコもなんとなく美味い気がした。

 しかし……。

 こんなにも愛してくれている人がいるのに、どうして僕は怪しい薬なんて飲んでしまうのだろう。しかも、迷惑なことに飲む前の記憶もすっぽりと抜けてしまっている。今日一日の記憶がないのだ。昨日の記憶もない。自分の名前や生年月日はいえるが、それ以外のことは思い出せない。職業は? 現住所は? なにもかもすっかり抜けている。記憶喪失に近い何か。けれど焦りはなかった。脳よりも先に、体が受け入れてしまっているのだろう。

 妻の名前を忘れてしまったのはそのせいだろうか。けれど、どうして同じ室内に異性を妻だと認識できたのだろう。夜な夜な僕の家に押しかけてくる迷惑な女かも知れないのに。

 まぁ、どうでもいい。彼女は僕に尽くしてくれている。それだけで充分だ。

「もう鉛筆とタバコを間違えないでね。黒鉛が溶けると使い物にならなくなるの」

「それは悪かった」

 返事を返してからはて、と首をかしげる。鉛筆はそんなにも繊細なもだっただろうか……。太古の昔からあった鉛筆。ライターの火ごときで使えなくなるものなのか?

 試してみることにした。鉛筆を手に取って、手頃な紙はないかと探す。メモ用紙があればいいものの、どこにもみつからない。

「君、メモ用紙はないかね」

 油汚れの目立つ食卓にたくさん鉛筆は転がっているものの書き付けるものがない。妻は笑顔のまま固まった。

「必要ないじゃありませんか」

 何を書き留めるのですか。

 やけに気持ちの悪い声色で、僕は恐ろしくなった。ちょうどタバコを吸い終わって、灰皿に押しつける。じゅうう。山のように積もった吸い殻も掃除しなければ。

 意識が飛びそうになる。これも副作用か。ところで何の薬なんだ?

「疲れているんだわ。今日はお休みになってくださいな」

 妻の声が頭に響く。なんだなんだ。急に意識が遠のいてしまう。これも悪い夢なのだろうか。薬を飲まなければ、薬、薬を――。

 

 目覚めが悪かった。新品のタバコを片手に持ったまま眠ってしまったようだ。しかも、食卓で。

 妻は寝かせてくれなかったのだろうか。いや、先に寝てしまったのか? けれど、あんなに尽くしてくれたのに。そんなところで裏切るのか。

 空になったコップと、山盛りの灰皿。それから昨夜は気がつかなかった大量の薬が詰められた茶色の瓶。

「おうい、朝飯」

 まるで、いつも言い慣れているみたいに口が勝手にしゃべった。日課らしい。そのことすらも忘れていたみたいだ。

 しかし、その声に応えるものは誰もいなかった。しん、と静まりかえった室内には、僕しかいなくなってしまったかのよう。人の気配すら感じない。妻は出かけてしまったのか? 

 立ち上がるとずきずきと頭が痛んだ。タバコを吸いたい衝動に駆られるが我慢する。朝から吸うのはなんだか僕の美学に反している。と、体が訴えかけてきた。

 僕たちの住処は、アパートのようだった。リビングと寝室、それからバスルーム。広すぎることはないが、狭すぎることもない。二人で住むには丁度良いくらいだ。寝室には敷きっぱなしの一組の布団。くたびれて茶色のシミがついている、汚らしい僕の布団だ。僕の布団しか置いていない。寝室を後にする。

 バスルームはトイレ別。広くはないが狭いってわけでもない。磨りガラスのドアが入り口だ。脱衣所の電球は切れているようで、スイッチを押しても反応がなかった。

 なんだか嫌な予感がする。それに、嫌なにおいも。鼻が曲がりそうな、におい。本能が僕に警告しているような。けれど、吐き気はない。吸い慣れているにおい。体がこれも覚えていた。不快感はさほどない。


 扉を開いて後悔した。


「薬を飲まなきゃ」

 脳はパニックを起こしかけたが、体はもう慣れているようだった。こみ上げる吐き気はすぐに霧散した。頭の中は茶色の瓶の事ばかり考えている。

 目の前に広がった赤い光景を冷静に処理し、扉を閉めて、きびすを返す。すべてを思い出して、すべてを忘れたくなった。


 全部、幻覚ならよかったのに。


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