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尾形光琳〜酔狂の波間から光を握る〜

目の前の女の顔面は蒼白だった。
両手で小袖の裾を握りしめ、俯いている。
かすかに見える額に汗が滲んでいるのが白粉を塗っていてもわかる。

「では、市之丞※1様はいらっしゃらないと?」
女は声を絞り出すように言った。
※1 後の尾形光琳
「あぁ。どうしても抜けられぬ会合があってな。こちらも商売だ、飲んでもらいたい」
惟充(ただみつ)※2は努めて事務的に応えた。
※2 後の尾形乾山。光琳の弟。
女に同情する気持ちがないではない。
いやむしろ、女と一緒になって兄、市之丞を糾弾したい。
状況は違えど、気持ち的には女の方に近い。
しかし今は呉服商、雁金屋を代表して女と向き合っているのだ。今でこそ、往時の隆盛は衰えたといえ、古くからここ京都は智恵光院通に店を構える老舗だ。公家の二条家や徳川の奥方を顧客に持つ店の看板を、穢すわけにはいかない。そう、これは兄のためではない、店のためだ。
そう自分に言い聞かせ、ぐっと唾を飲み込むと、惟充は懐から懐紙を取り出し、畳の上を滑らせた。
「今回のことは、コレで」
中には、今の雁金屋にとっては安くない金が包まれている。こんなことに店の金を使うのはバカげている。だが、やむを得まい。
俯いていた女の左眉が生き物のようにピクリと上がった。
女は惟充に向き直ると言った。
「どういうおつもりですか?」
「迷惑をかけた」
頭は下げない。惟充は女を改めて見た。薄柿色の小紋はやや色が褪せている。鬢(びん)からほつれ毛が何本か出ている。女がどういう家の出かは知らないが、さほど裕福な家ではないだろう。頭まで下げる必要はない。自分が頭を下げたらそれは、雁金屋がこの女に頭を下げたことになる。
もし、頭を下げるなら市之丞、本人であるべきだ。
「あまりふざけないでください」
「中を改めてもらえばわかる。ふざけてなどいない」
「それが、そのようなやり方がふざけていると申し上げているのです。お腹の中の子を何とお思いですか!?市之丞様と話させてください!」
「それは、できない。さっきも言った通りだ」
こういう修羅場には慣れている。
いつも兄の尻拭いをしてきた。
頭に能の面を思い浮かべて喋ればいい。暗闇に白く、唇だけ赤く、浮かび上がる面だ。禅宗、黄檗宗に依るならば、煩わしき人の世の諸々ことごとく虚しい。みな、芝居だ。
ふと、女の口元にほくろがあるのに気づいた。白地に鷺草の図柄の帯で絞られた腰上の胸は小紋の上からでもわかる柔らかな盛り上がりを見せている。急に、その帯をほどき、引っ張り、女を畳へ転がしたい衝動に駆られた。
兄が間違いを犯すのはいつも同じ、こういうどこか"緩そう"な女ばかりだ。それも腹立たしい。が、それはもしかした兄への嫉妬かもしれない。嫉妬?自分も兄のように次々女に手を出したいというのか。バカな。意味がない。
「何がおかしいのです?」
女の声で我に返った。知らぬうちに、少し、笑っていたようだ。
「いや。とにかく今日はこれにて、お引き取り願いたい」
「また来ます」
女は硬い声で言うと立ち上がり、送ろうとする惟充を手で制した。
「わたし、抱かれたのがあなた様なら良かったです」
思わぬ言葉に、聞き返した惟充に女はサラリと腹を撫でて言った。
「ならば腹の子を殺すのに躊躇もなかったでしょう。それで金子までもらえるならもっけもんでしょう?」
その瞬間、さっきまで大人しい町娘に見えていた女が、遊郭で手ぐすね引く百戦錬磨の遊女に見えた。
鬼に惚れているのだなと惟充は思った。
兄、市之丞の中には彼自身にも制御できない鬼が棲む。
しかし怖いのは鬼ではない。鬼に惚れた女の方がよりやっかいだ。
惟充は畳に置かれたままになった懐紙を拾い上げた。

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中立売通りを懐手で足早に歩く。
馴染みの問屋が声をかけてくるのに適当に応える。
立ち止まって応じたところで最近はいい話がない。
滞り気味の生地代について嫌味の1つも言われかねない。
しかし彼らとて商売だ。商家立ち並ぶこの通りで生き残るのは簡単でない。武士のように切った張ったはない。けれど隣りが沈めば喰わんと銀貨片手に、お互いの髷を引っ張りあってる。商人の世もだいぶときな臭い。だが…まぁ良い。
今は、兄が問題だ。

1693年、京都。
惟充は懐手のまま智恵光院の石段を上がる。視線は前へ向け、中縹(なかはなだ:紺色)の羽織から伸びたその首筋はスッと伸びている。話がどう転がるか、予想できないがいずれ、こちらが切れる手札は限られている。兄がどう出るかだ。
本殿の脇に腰掛けて市之丞は薄黄色の花をつけたノゲシを指先でくるくる弄んでいた。
「いいだろう。こんな図案※3がなかったかな。ススキと合わせて黒に金糸なんてどうだ」
※3 呉服屋である尾形家には着物の柄の図案帳が沢山あった

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惟充は市之丞に表情を悟られぬよう、やや俯くと薄く笑う。いつもコレだ。商才も家業を継ぐ気もないくせに、気まぐれに着物の柄の話などしてくる。まるで自分にはそうした意匠の特別な才でもあるように。いや、そのくらいなら放蕩者の兄の戯言と笑って済ませよう。そこに苛立ちが混ざるのは、そうした気まぐれを見せておけば、多少の不始末も許されると兄が勘違いしているところだ。しかも、その指摘はことごとく的を射ており、自分には思いつきもしないものなのだ。
惟充は俯いて笑い顔のまま、表情を止めて能面を思い浮かべる。
「多代殿は帰られましたよ」
平坦な声が出た。さっきの苛立ちはどこにも感じられないはずだ。
「そうか。面倒をかけたな」
市之丞が指で弾いたノゲシが風に舞い、境内を転がる。
「手切金は、受け取ってもらえませんでした。兄上がいらっしゃる時、また来ると」
市之丞はフンっと鼻を鳴らした。
惟充は立ったまま、兄を見下ろした。黒地に渦巻くような細かい紋紗が入った着流しに、赤紅の扇子を挿し、頭は銀杏頭ではなく蝉折にしている。どこからどう見ても裕福な商家か武家の遊び人に見えるだろ。それはそれでいい。だが問題はもはや雁金屋は裕福な商家ではないということだ。ひとえに、この兄の放蕩のせいで。
「これで、何人目ですか?」
自分で思ったよりも冷ややかな声が出た。
「数えてないよ。日本酒と同じだな、出会って褥(しとね)を共にするまでは良いんだが、喉元過ぎればなんとやら、次の夜はまた別の酒が飲みたくなる」
よっこらせ、という感じで市之丞が立ち上がった。
自分でも唐突に、惟充はその頬を張った。2、3歩よろめくと市之丞は驚いたようにこちらを見たが、不敵に笑っただけだった。
「お前もちった、遊べよ。現(うつつ)の時は思うより短ぇぜ」
「ならば」
惟充は市之丞を正面から見据えた。
「私から借りた10両を、まずは返して頂きたい。父上が遺してくださった家督をおなごを孕ませることで食い潰し、店の金にも手をつけ、私からも金を借りている。遊べと申されても既に兄上に遊び尽くされ、私にも雁金屋にも、そのような余力は残ってございません」
市之丞は扇子を抜くと、ポリポリと頭を掻いた。見え透いている。これこそ芝居だ。急に、白けた。
「もう私は、このようなお役はごめん被ります。次、多代殿が参られた際は、ご自分で会われたらよろしい」
踵を返した惟充に、市之丞が声をかけた。
「惟充、今お前が住んでるとこは、仁清殿※4の窯の近くだったな。それが理由で仁和寺なんてあんな女気のないとこに住んだんだろ」
※4 野々村仁清 陶工
「静かで禅を組むに良いからです。兄上の物差しで語らないで頂きたい」
「ふん。禅というならな、悟りはおなごの"中"にもあるんだぜ」
「そのような話に興味はございません」
「そうか、ならいい。だがな、お前、陶工になれ。俺は絵をやる。これはずっと考えていたんだ」
惟充は、今度は隠すことなくはっきり笑った。
「何を言い出すかと思えば。兄上、今から絵師になると?楽しみです」
惟充は一礼してその場を去った。
絵師になる?兄上が?店に戻りながら考えていた。
確かに兄上の考える意匠は洒落ていて、大胆だ。
時折、戯れに「光琳」という名で絵を描いているのも知っている。
だがそれでどう絵師になる?
現実離れしている。私が陶工になることはそれ以上に考え難い。店は長兄の藤三郎が継いだが、だからといって、この窮状を見捨ててはおけまい。父上が必死に守り遺してくれたものだ。
しかしそうした気持ちの一方で、惟充は自分にも兄のように店のことなど気にせず、自由になりたい気持ちがあることに気づいていた。
いや、そんなことなどできるものか。
私は兄上とは違う。
店に戻ると惟充は着替えのため、自分の部屋へ戻った。そうして、しばらくすると番頭の権助を呼びつけた。
「駕籠を呼んでくれ。二条様※5のところへ行く」
※5二条綱平 公家。のちに関白にまで上り詰めた。雁金屋とは交流があった。

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市之丞は多代が働く茶屋へ出かけると、声をかけた。
しかし、多代は気づかぬ振りで応じなかった。
市之丞は多代が隣りの客に茶を置いたタイミングで、その手首を掴んだ。ハッとした表情で多代が市之丞を見る。
「聞こえないか?俺に用があるんだろ?」
「離してください。もう、いいんです」
辺りを憚るように多代が小声で早口に言う。
「もういいこともないだろ。なんせこれは"2人のこと"なんだしな」
多代は黙ってこちらを睨んでいる。市之丞は店の奥に声をかけた。
「お前んとこの別嬪、ちょっと借りるぜ」
そう言って、強引に多代を店の外へ連れ出した。
通りには既に、駕籠を用意させてある。そこへ、背中を押して多代を押し込む。
「何するんですっ。こんなの、人攫いと同じですよっ」
多代が金切り声をあげる。市之丞はその唇を人差し指でそっと押さえた。
「しっー。籠の中で騒いじゃ、外の平民どもが驚くぜ」
「わたしは、あなた様の考えていることがわかりませぬ。何度伺っても、会おうとなさらず逃げたかと思えば、突然来てこのような真似をされたり。どういうおつもりです?」
「じきわかる。多代、それまでお前は俺のそばにいろ」
連れ去る時とは違う強さで多代の腕を引く。
「やめてください。こんな場所でっ」
多代は着物の衿を合わすと、座り直した。

目的の屋敷に着き、座敷に通されると、しばらく待たされた。
市之丞は勝手知ったる場所だが、多代は初めてだ。
隣りでそわそわしている。
「そう固くなるよ。ちょっと今日は遊郭仲間を紹介したいだけだ」
「ゆ、遊郭って…」
言って、多代は毛虫でも見るような目つきで市之丞を見たあと、声をひそめた。
「でも、二条様って…本当にあの…」
その時、奥の襖がガラッと開き、二条綱平が入ってきた。
スタスタ歩くと、白地に銀糸で有職文様が織り込まれた狩衣の裾をパッとはたき、上座に座った。
「急に来るなと言ったはずだぞ、市」
そう言って市之丞を見、隣りの多代に気づくと相好を崩した。
「ほぉ。これはまた上玉な…どこの店だ?」
「おいおい、人の女を遊女扱いされちゃ困る」
「そうか。いやこれは済まぬ。そち、名は何と言う?」
「多代です」
多代は緊張と恥ずかしさで俯きながら辛うじて答えた。
「多代、ワシのとこへ来んか?金なら出す」
多代は顔を上げた。綱平の細い目が猫のように弓なりになっている。しかし、笑ってはいない。多代は黙ってその目を見つめた。その目を、綱平も見つめ返した。
「ハハッ。冗談じゃ。市、このおなご、なかなか肝が据わっておる。手放すでないぞ。きっとお前を、今より広い場所へ連れてってくれるわ」
「言われるまでもない。だから、夫婦(めおと)になるんだ」
「夫婦!?」
叫んだのは、多代だった。正座のまま、小さく飛び跳ねすらした。聞いてなかった。いや、もう、諦めていた。本当に、この人は、何を考えているのだ。わからない。
「どうした?やや子もできたんだ。当たり前だろ」
市之丞は澄まして答えた。
その様子を眺めながら、綱平が言った。
「それはいい。お主、絵師になるんだろ?」
今度は市之丞が驚く番だった。
確かに今日はその相談もしに来たのだった。しかしそれを、何故、綱平が知っているのだ。
「少し前に惟充が来てな、色々頼まれた」
惟充?
市之丞は曖昧に頷く。
惟充が既に来ていただと?あの社交嫌いな堅物が?
俺のために?まさか。この間話した時、あいつは俺の話を鼻で笑ったではないか。
「遊び仲間が減るのはちと寂しいが、お主が自分の道を見つけたのはワシも嬉しい。できる限りの助力はしよう」
その言葉に多代が頭を下げる。さっきの慌てぶりはどこへ行ったか、落ち着き払った所作だった。女は強い。ひとたび"居所"が定まれば、楓のようにしっかとその地に根を張り、踏ん張れる。多代を見て、慌てて市之丞もならった。
自分のような根なし草には多代のような女が必要かもしれない。
共に快楽に漂える、同じ根なし草の女でなくて。
満足そうに頷くと、綱平が尋ねた。
「ところで市、いくつになった」
「35です」
「そうか、ならば絵をやるにしても、そうのんびりもしておれんな。よい、それがしに任せておけ」
任せるとはどういうことか、具体的にはわからなかったが、ここは頭を下げておくしかないだろう。
それからしばらく話し、座敷を出ようと襖の引き手に手をかけた時、再び綱平が多代に声をかけた。
「おい、本当に、ワシのとこへ来んか。奴よりは金もある」
多代は微笑んで応えた。
「畏れ多くも二条様からそのようなお言葉。もったいないことでございます。なれどわたしには"そばにいろ"と言い含められている殿方がおります。どうか、ご容赦を」
堂に入った、言いっぷりだった。
これには綱平も苦笑して手を振るしかなかった。

綱平の屋敷を辞して、鴨川沿いを2人で歩いた。
「さっきのあれ、本当?」
背の低い多代は、市之丞を見上げた。
「嘘なんて言うか。家業を継げれば良かったが、とても俺にはそんな才覚はねぇ。絵くらいなんだよ、絵だけは、昔から好きなんだ」
「うん…でも、あの、そっちじゃなくて…」
「安心しろ。もう一つの方なら、もっと本当だ」
市之丞は多代の頭をポンっと叩いた。
「もうっ。やめてくださいまし。髷が乱れます」
堪えて、堪えたはずなのに、精一杯尖った声を出したはずなのに、声が、震えた。安堵と、嬉しさで。
市之丞は何も言わずに再び多代の頭に手を置いた。

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1699年、冬。京都。
惟充は台所で立ち働く多代の後ろ姿を見て、6年前を思い出していた。あの時、顔面蒼白で自分の前に座っていた女と同じとは、思えなかった。子供を産んだはずだが、その身体は引き締まり、鞠のような弾力を湛えているのが小袖越しにもわかる。化粧は薄くなったが、その分、笑った時の健康的な白い歯が印象に残る。
多代が振り返って、目が合った。
「ごめんなさい、もうすぐ帰ってくると思うんですが」
「あぁ、いや。こちらも約束してなかったんでね」
じっと見ていたことを悟られたかもしれない。その気まずさから、惟充は曖昧に答えて出された茶を一口すすった。
「兄上は、内蔵助※6殿のところですか?」
※6 中村内蔵助 京都の銀座(貨幣鋳造所)の役人で光琳のパトロンであり、友人でもあった。
「はい、綱平様からのご紹介で…この頃、色々ご注文頂いてるようです。それもこれも、綱平様にお話を通してくださった惟充様のおかげです」
そう言って、多代は頭を下げた。
「いや、私は最初のとっかかりを作ったに過ぎない。それからのことは兄上の才覚と多代殿の力添えの賜物だ」
「惟充様も最近、ご自身の窯を持たれたとか」
「あぁ…」
「……」
元々、世間話は得意ではない。会話が途切れ、沈黙が訪れた。
「冷えますね。炭を替えましょう」
多代が部屋の隅の火鉢を見て立ち上がった。その拍子に着物の裾がめくれ、白いふくらはぎがのぞいた。その白さが目に焼き付き、動悸のように胸が高鳴った。気づくと、惟充は多代の背後に立っていた。怪訝そうに、多代が振り返る。
「惟充!来てたのか。すまない!」
玄関の引き戸が派手に開けられる音がして、光琳の声が響いた。
「糸が…ついております。家業が呉服屋ゆえ、気になって」
惟充は多代の肩先についた糸をつまんで見せた。
多代は惟充を見つめたあと、黙って小さく頭を下げた。

光琳は炭を両手に抱えて部屋に入ってきた。
手際良く火鉢に加えると、炭はカッと赤く燃えた。
「ありがとう。気が利くのね」
「俺は気しか利かないんだよ。それはそうと惟充、ついに窯を持ったらしいな。場所はどこよ?」
「鳴滝泉谷の方です」
「乾の方角か、縁起がいい」
「はい、それで名をこれより、乾山に改めようかと」
「ふーむ」
光琳はしばし天井を見上げると手をパンと打った。
「良いな。これで陶工、乾山の誕生ってわけだ。よし、乾山、お前の作陶、俺も手伝うぜ」
「手伝うといっても兄上は絵でしょう?」
「絵師は陶器に描いちゃいけないって法はないぜ。釉薬で焼くだけが能じゃねぇ。乾山、俺と組んで今までにない器を作ろう」
乾山は、兄、光琳をまじまじと見つめた。目が、爛々と輝いていた。兄上も、絵師としてはようやく仕事が軌道に乗り始めたところ。まだまだ生活は苦しいはずだ。先行きだって確かでないだろう。なのにこんなにも力強く、希望に満ちた目をしている。何故か。ふと、視線を横に逸らすと、多代が光琳から少し下がったところで、座っていた。この女か。多代が、どうしようもない放蕩者をここまでの目をする男に変えたか。いや、それだけじゃない。それだけならば以前の兄上なら多代に溺れ、喰われ、喰い、いずれ飽きてまた他の女へとふらふら彷徨ったはずだ。それがない。若樹のような力強さの中に落ち着きが感じられる。やるべきことが明確になった男の強さか。
窯を持ち、名を変え、生まれ変わったのは自分のはずなのに、芸術家として先んじているのは自分のはずなのに、乾山はどうしようもなく兄が羨ましかった。羨む?あの兄を?この私が?
ここに至り、乾山は認めざるを得なかった。今まで、そんなものは人生に必要ないと思っていた。しかし…今無償に乾山は、女が欲しかった。
多代のように自分を慕い、支えてくれる女が。
「兄上、器に描けるのですか?」
「やってやれないことはないだろう。やれなかったら、やれるまでやるだけだ。おい、多代、酒持ってきてくれ。今日は祝いだ、乾山、泊まってけるんだろ?」

視界が歪み、目の前の光琳が伸びたり縮んだりして見えた。酔っていることにもはや、気づけぬほど乾山は酔っていた。生真面目な彼にしては、珍しいことだった。
「兄上は勝手だ。家業もなにもかもうっちゃって、金を湯水のように使った挙句、一銭も返さず、未だに好き勝手やっている。私は軽蔑します」
光琳は笑って答えず、手酌でとっくりから酒を猪口に注ぐと、くいっと飲んだ。
「兄上、あなたは気取ってらっしゃる。何もかも忘れた顔で、余裕で酒など飲んでいる。酒など、飲めた立場ですかっ!」
乾山は、目の前の徳利を手で払った。徳利が倒れ、中身が飛び散る。小さく悲鳴をあげ、しかしすぐに多代が立ち上がる。それを制し、光琳は手拭(現代のハンカチ)を取り出すと、畳をサッと拭った。
「乾山よ、今のその想い、忘れずに器に変えてみな。そうだ、襲名祝いに見せてやる」
光琳は乾山の腕を持って立たせると、奥の仕事部屋へ連れて行った。
そこには、六曲一双屏風が立てかけられていた。地は目も眩むような金箔だ。そこに歌い競うようにリズミカルに燕子花が配されている。無駄と個性が削ぎ落とされ、半ば図案化された青い燕子花の繰り返し。眺めていると花の奏でる波に攫われそうになる。酒の酔いだけではない、乾山はふらついた。もしかしたらその時、蒼き燕子花の調べに酔っていたのかもしれない。

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「これは…」
ようやく出た声は間が抜けていた。
兄は確か、狩野派の山本素軒に習っていたのではなかったか。しかし目の前の絵にその特徴は見られない。強いて言うなら、宗達などの影響が見られるか。しかしそれとも異なる。いつの間に、ここまで自らの絵を進化させたのか。
「ちょっといいだろう?着物の図案を参考にしたんだ。女、子どもは絵に小難しい理屈なんざ求めちゃいねぇ。雅でわかりやすく派手なのがいいのさ」
乾山は黙って頷くしかなかった。酒で曇っていた頭はすっかり晴れていた。
「兄上、私も、精進します」
初めてではないか。乾山は、兄、光琳に頭を下げた。
その背中を光琳はバシバシ叩いて笑った。
「それだ、お前の良くないところは。いや、良いところでもあるんだが。とにかく馬鹿真面目過ぎる。ちょっと、出るか」
そう言って光琳は戸惑う乾山を玄関へ引っ張って行った。それを見て多代が台所から声を掛ける。
「こんな時間からどこへ出かける気です!?」
「良いところよ。女の多代には縁ない場所さ」
笑って指で卑猥な形を作った光琳に多代が怒鳴る。
「そうですか。わかりました。行ってらっしゃいまし。その代わり、帰って来てもその手でわたしに触れないでくださいっ」
夜道を花街へ歩きながら、光琳は乾山の胸を軽く叩いた。
「乾山、勘違いするなよ。俺は"いい子"になんかなっちゃいない。今も昔も、俺は俺だ」
乾山は頷いた。肩を組むように首筋に巻かれた光琳の腕が温かく、頼もしく、急速に眠くなっていった。自分の膝が崩れていく感覚があり、光琳が遠くで自分の名を必死に呼ぶ声を最後に、ふっつり乾山の記憶は途切れた。

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1704年、京都。秋。
3年前、綱平の推挙により法橋※7に叙せられてから、光琳の仕事は増えていた。
※7 僧や医師、絵師などに贈られる称号
しかし、贅沢に画材を使うため、稼ぎはそれほどでもなかった。加えて、以前ほどではなくなったといえ、依然として女遊びも続けていた。
名が売れ、金が入れば寄ってくる女も増える。抱ける女も選べる。光琳にとって女性との時間は潤いでありインスピレーションの源でもあった。
「江戸に行かれるといって、あちらでも遊興三昧では困りますよ」
乾山が険しい顔で言う。
「バカ言うな。内蔵助殿が江戸へ移ったからな。向こうで新たな顧客も紹介してもらえるだろう。俺も、一度ここを出て江戸で見聞を広めたいんだ」
「内蔵助殿は仕事でしょう。兄上まで尻尾を振ってついていくことはない。兄上との合作の器も評判が出てきたところです」

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光琳は頷くと畳をトントンと指で叩いた。
「乾山、見てみろよ、この畳ももう何年も替えてねぇ。女だったらとっくに干からびてる」
「ちょっと!」
そばにいた多代が口を挟む。
「畳だけじゃねぇ。画材の支払いも滞ってこの家だっていつ追い出されるかわからねぇ。いいか、乾山、法橋なんて"オモチャ"与えられて持ち上げられたところで、現実はこうよ、仕事をしてもしても貧乏にゃおいつけねぇ」
「では、遊ぶのを控えられたら…」
「そいつは必要経費だ」
「それが高過ぎます」
「無粋だな。こもって描いてるだけならとっくに筆を折ってる」
乾山はため息をついた。
「しかし兄上、もう45ですよ?世間じゃとっくに隠居してていい歳だ。それを今から江戸など、丁稚奉公のような真似、笑われます。法橋にご推挙くださった二条様のお気持ちもお考えください」
「世間がどうした?綱平殿がどうした。俺はただもっと違う絵が描けるようになりたいだけだ。笑われる?今までずっと笑ってきたろう?乾山、俺が気づいてないと思うなよ?」
ピタリと首筋に、刃物を突きつけるような視線だった。
その視線にたじろぎ、瞬きし、もう一度見た時にはもう、光琳の目から先ほどの鋭さは消えていた。
「まぁいいさ。わかってくれとは言わねぇし、わがままなのもわかってる。乾山の言う通り、もう45だ。生い先もそう長くねぇ。やりたいことはやっておかねぇと後悔する」
「後悔はいいですが、少しは蓄えもし、寿市郎(光琳の息子)に楽をさせてやるべきでしょう。私と兄上が父上にしてもらったように」
「家業もねぇのに、蓄えがあるか。そんなものを期待する間抜けなら、とっとと野垂れ死んだ方がいい。遺してくれたものじゃない、いずれてめぇの才覚で生きてくしかねぇのよ」
「パァッと見事に遺産を使われた兄上の言葉だけある」
乾山の皮肉に光琳は鼻を鳴らしただけだった。
「とはいえ、絵師は家業なのでは?」
「家業とはその道を究め、生業として立って初めて言えるものだろう。俺の絵のどこが家業よ。パッと咲いて散るだけだ。全て、ここにある」
光琳はこめかみを指でさした。
「そうは言っても"派"として遺すことはできます。寿市郎だけじゃない、もっと後の世に兄上の絵と想いを継ぐことができます」
「乾山、お前も陶工になったなら、すぐ徒党を組もうとする商人根性は捨てな」
「そういうことじゃない。私は兄上のためを思って言っている。なればこそ、今は京都にとどまり、京都で名を広めるべきです。江戸へ遊興など行ってる時間はない」
「うるせぇよ。派だと?琳派、とでも名づけるか?そんなもの作ったところで、いずれ形だけ、名だけになって中身はすっかり入れ替わる。俺の思いは、絵は、今ここだけだ。他にありはしない」
「……」
こうなるだろうことは分かっていた。ならば自分は何しに来たのか。お互い、作陶で顔を合わせることはあっても、仕事以外の話はしなくなった。法橋になった祝いもきちんとしてない。今日は仕事は忘れて、楽しく話せたらいい、そう思って来たはずなのに。
乾山は正面に座った光琳の肩越しに外へ視線をやると言った。
「来る時、赤とんぼが飛んでいました」
「となると萩か」
「萱は?」
「ちと普通だな、撫子」
自然と蜻蛉に合わせる着物の柄の話が始まっていた。
小さい時からしていた、呉服屋で育った2人ならではの遊びだった。
「それだと色がぶつかります。女郎花」
「悪かぁねぇが…」
光琳が言い淀んだ隙に多代が加わる
「桔梗」
「それなら月がいい」
「なれば前身頃に縦に入れるのは?」
「いや、裾回しでチラつかせるのが粋よ」
「でしたら蜻蛉だけがいいのでは?」
「多代、お前、なかなかいい線いってるな」
「伊達にいつもあなた様の話し相手はしておりません」
「兄上」
「何だ?」
「江戸でぜひ、新しい画風を会得してきてください。私もその間、さらに精進して帰りをお待ちしております」
光琳は乾山の顔を眺めた。
面長でやや頬がこけている。目は涼しげな切長だが、目尻が下がっているせいで、どこか気弱な風にも思える。黒の無地の羽織は光沢があり生地の良さを感じさせるが、面白みはない。もう一度、視線を顔へ戻す。幼少の頃より、病気のように肌の青白いのが常だったが、今はやや高潮している。笑うとなくなる細い目は穏やかだった。
いつだったか、乾山が窯を持った時、その祝いで酒を飲んだことがあった。確かあの時は、内蔵助との話が長引いて、遅れたのだった。遅れて、部屋に入ったあの時の空気を今でも覚えている。多代が部屋の奥、火鉢のそばにいて、その背後に乾山が立っていた。部屋は静かだった。だが、その時の乾山から漂っていたあの空気。安い酒を腐らせたような臭いが確かにした。
それが今の乾山にはない。
澱は落ちたか、はたまたこの年月で別の何かに変えたか。
これなら安心して江戸へ行ける、そう思った。
「乾山、お前には、面倒ばかりかける」
光琳は、頭を下げた。

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5年ほど江戸に滞在し、光琳は京都へ戻った。
文化の違いもあり、江戸での日々は決して快いものではなかった。しかし内蔵助に材木商冬木家や豪商三井家などを紹介され、求めに応じて、扇子などの小物から、着物の絵付けも手がけた。その中で、対象をより細かに忠実に描く技法を身につけた。客の要望のためではあったが、それは結果的に光琳の画風を押し広げることになった。

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江戸での日々は疲れた。名を挙げるまでには至らなかった。しかし、帰京するにあたり、光琳に敗北感はなかった。この手のひらに確かに新たな何かを掴んで帰る。そうした実感があった。
今まで取り組んできた、対象の図案化やたらしこみの技法。そこに新たに身につけた、繊細に忠実に描く技法が合わされば、自分だけの絵が描けるような気がした。

江戸に戻ってから2年後、光琳は二条城の近くに新居を構えた。1階は住まいで、2階は丸ごと仕事場にした。家を建てたら、財産はほとんど残らなかった。それでいい。ここで死ぬまで思う存分描く。そう決めて、半年前から取り掛かっている屏風絵があった。寝食を忘れた。その屏風絵が描き上がった朝、久しぶりに光琳は南向きの2階の窓を全て開け放った。陽の光が眩しい。光琳は大きく息を吸い込んだ。まだ新築の木の香りがほのかにする。

「これは…」
後ろで、出来上がったばかりの屏風絵を眺めていた乾山が声を漏らす。
「どうだ?」
自分でも、声に自信がこもっているのがわかった。
二曲一双の屏風に金地を貼り込み、左右に紅白の梅を対峙させた。さながら風神雷神図のように。そして中央には巨大な渦巻く黒い川。波は金色で図案化して表現した。
「吸い込まれそうです」
自分の中のどす黒いもの、今まで生きてきて、消しようのない悔いや己への苛立ち。1人で描いて死ななくてはいけないことの寂しさ。どれだけ酒を飲んでも、多代の尻を揉もうが、消えはしない苛立ちと孤独。抱いては捨てて、捨てられ消えて行ったあまたの夜と裸のように、この俺も消えていく。それしかない。飲み込んで納得ずくで生きるしかない。だが、本当にそうか。飲み込んでいるのか?皆。本当に?通りを歩く1人1人の襟を掴み、問いただしたかった。絵師になるという思いは叶い、やりたいように50年以上生きてきて、妻を娶り、子も作った。それでもなお、震えるほどに孤独だった。誰か。夜中に、そう叫びたくなった。そうした渦巻く思いを、他の者ともわかり合える形にしようとあがき、吐き、嗚咽し、生まれたのがこの『紅白梅図屏風』だった。

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「…兄上は、この一作で後世に名を残します」
予言のように乾山は言った。
「バカ言うな。まだまだよ」
そう言ったがしかし、いつもなら腹の底から湧き上がってくる次の作品への気力やアイディアが、どれだけまさぐっても見つからなかった。だが、まだ、まだだ。光琳は何度も自分に言い聞かせた。まだ描いちゃいない。
後世など関係がない。いずれ全て消えていく。この屏風とて、いつか朽ちる。だから今、描かなくては。
「見てくれ。次に描こう思っているのが…」
棚の引き出しから、図案帳を取り出そうと一歩踏み出した。その途端、視界が傾いた。おっと、流石に疲れているか、何とか踏みとどまり、さらにもう一歩、もう一歩…おかしい、棚へ近づかない。どこか遠くで、乾山の声が聞こえた。バカな奴だ。あの夜、酔って道で寝ちまったのはお前の方なのに。これから花街で楽しいことするんだろ?何でお前が俺を呼ぶんだよ、俺はここにいる。

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海を泳いでいた。
暗く、渦巻く海だ。
遠くで乾山が手を振っている。内蔵助も綱平もいる。いつか寝た名前も忘れた女達も手を振っている。あぁ、とてもそこまでは泳いでいけそうにない。少しずつ、波間に彼らの顔が消えていく。自分が沈んでいっているのがわかった。ちぇ、もう、店仕舞いかよ。どうだ?これからちっと外で飲まねぇか。え?散々飲んだから金払えって?そうかよ、つれねぇなぁ。はいよ、またどうぞ。シケてやがる。ちっとも気持ち良くなかった。海の中、目を開くと目の前に多代がいた。何か、必死で叫んでる。口に水が入って泡がぶくぶく立って、苦しそうだ。それでも構わず叫び続けている。
何だよ、不細工な面して、何だって言うんだ。
俺は大丈夫だ。次第に多代が遠ざかっていく。苦しそうに顔を歪めながら手を必死に伸ばしている。多代?その手を、思わず掴んだ。
その刹那、何かに引き上げられるようにガッ!と飛び起きた。目を開けたら目の前に、多代の泣き顔があった。
「なんだお前、そこにいたのか。俺のそばにいろって、言ったろう?」
多代はものも言わず、犬のように光琳にしがみついた。

あとから乾山に聞いたところによれば、3日意識がなかったらしい。3日も河岸を彷徨ったとなれば、半分死んだも同然、これからは何も恐れず描いていこう。まだ描くものがある。全て朽ちるとしても。

光琳は、多代を引き剥がすと、頬を両手で挟み、そっと口づけをした。初めて知る、塩辛い口づけだった

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その後も光琳は1716年、56歳で没するまで、精力的に描き続け、晩年は大作の傑作を多く残した。

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その精神と画風は琳派として、抱一ら後の世に影響を与え、受け継がれ、今に伝えられている(終)


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