掌編『ぬけがら』

 蜃気楼になりたかった。空気を揺らし、日差しへ体を預けたかった。

 太陽が毛羽立った畳を燃やす。冷たい布団とぬるい缶ビール。煤けた原稿用紙が畳を隠している。西武池袋線近くの安アパートは、電車が通るたび、木製のドアが軋む。がたん、ごとんと、規則正しい騒音が耳へ入り込む。
 柱に体を預け窓の桟に肘をつき、一メートル平方の窓から街を見下ろす。徹夜明けの目は充血して痛い。住宅街の合間にできた狭い道には誰もいない。
 オレンジ色の空に雲が流れる。伸びた前髪をかきあげる。涼しい風が額に当たる。また、街を見る。
 一人の女がアパートの前で足を止め、顔を上げた。目が合う。息が止まる。姿勢を直す。蝉が鳴く。女と俺は、同じことを考えている。

 あれから何度目の夏だろう。

 金はなかった。時間もなかった。あるのは互いだけだった。
 夢はあった。最初は一つずつ。いつしか二人で一つの夢になった。原稿に向かいながら、彼女の歌を聴くのが好きだった。彼女の歌声は、文字を躍らせた。
 夜になると暑い布団の中で飽きるほど求め合った。汗で濡れた背中の白さ。そこへ張り付く長い黒髪の柔らかさ。歯を立てた鎖骨の硬さ。耳を湿らす吐息の温度。視線と指が絡まって、言葉と肌が重なった。たぶん、あれが幸せというやつだったのだろう。
 秋雨に彼女は流されていった。どこへ行ったのか、なぜ消えたのか。考えることは、夏を探しに行くのと同じだ。季節は過ぎたのだ。


 踏切が響く。日が昇る。短い茶髪に、着慣れたようなワイシャツ、苦手と言っていたヒールも様になっている。それでも、変わっていない黒い瞳が俺を映して揺れている。
「あの夏」
 言いかけた言葉に彼女は目をそらす。朝焼けに向かって、一人、歩き出す。遠くなる影の背筋は伸びている。俺はただ、見つめることしかできなかった。また、長い一日が始まってしまう。
 夏は残酷だ。思い出ばかり作って、何食わぬ顔でまた現れる。忘れたふりをして繰り返す。忘れられるわけ、ないのに。

 蜃気楼になりたい。空気を揺らし、日差しへ体を預け、夏に溶けてしまいたい。


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