琳琅 第二号より、「何故に今は在る」⑧ 松尾晴

8.

 久々に来た競馬場の跡地は、満月の中にしっとりと佇んでいた。青い影が僕らを包み、雑草は夏の湿った風にそよいでいる。僕は坂を上りきる頃にはワイシャツの背が汗で冷たくなっていたのに、レオは長袖を着ていても汗を拭うそぶりも見せない。背の高い柵の前に立ち、二人で建物の上に設置してある丸窓を眺めていた。
「入ってみようか」
 レオは返事を待たずに柵を登り始めた。鉄格子をためらいなくつかみ、軽やかに柵を飛び越える。防犯カメラもないこの場所の柵は、少年にとって意味をなさない。レオの背を追って柵を越え、二人で錆び付いたドアの前に立った。長い棒を横に引いて開く形式の鍵はすでに腐食が進んでいて、軽く触っただけでも手に錆がつく。指に付いた赤茶色の錆をズボンで拭って中に入ると、そこには長い廊下が続いていた。割れた窓ガラスからは海色の光が漏れている。木造の床はところどころ腐っていて、ほこりや紙のごみが散らばっていた。
 レオはまっすぐ歩いていく。コンクリートはシミだらけで、打ちっ放しの天井は所々剥げている。物は何もない。カビ臭くて冷たい空気は僕たちにお似合いだった。月光がレオの白い肌に触れる。金色の髪は月に溶けていきそうなほど透き通って見える。こちらを振り返り付いてきているのを確認すると、割れたガラスを踏みながら朽ち果てた階段を軽々と上って行った。
 階段を上りきった先には、先ほど見た丸窓があり、広い屋根裏部屋があった。釘が出ている木目の床を踏み抜かないように注意したが、埃っぽいだけで構造はしっかりしている。レオは振り返らずに深呼吸をした。静寂に吐息が混じる。汗をかきながら、これから起こり得る事態を察して興奮と冷静の間に喘いだ。
「知ってたよ。ミツルが猫を殺してたこと」
 レオは僕に背を向けて、ブーツのチャックを下ろし始めた。
「彫刻刀新品なのに、いつも錆び付いてたよね」
 ブーツを床に落とした。一人でに砂の上を歩くように、周りの埃が浮かぶ。
「雨の日の、あの目とペトリコール。忘れられないんだ」
 初めてだった。自分のことを人に話したのは。自分とは何か、自分が一番わからないし、わかりたくもない。でも、レオなら受け止めてくれる。その確信があった。飾る必要は無い。
 ベルトの金具が外れる音に息は荒くなっていった。月光とレオの声しか響かないこの空間を犯していく僕の鼻息は、ひどく無様だ。現れた白い太ももには、茶色や紫のあざが斑点模様に散らされている。まるで万華鏡を見ているようだ。
「でもね、僕、ミツルのこと好きだよ」
「どうして」
 やっと出た言葉はただの疑問符だ。レオは長袖のティーシャツに手をかけた。肩甲骨が浮き出ている。その形が寸分の狂いもなくシンメトリーで、同じ影を描いている。羽はどこに消えたのだろう。
「あんなミツルの目、誰も知らないでしょ」
 背中は細くくびれていて、背骨が等間隔に並べられていた。丸みを帯びたその肌には、同じようにあざがあり、真ん中には大きなミミズ腫れが這っていた。
「ミツルは、僕の世界だよ。本と、家しかなかった僕に、体温の世界をくれたんだ。ミツルといる僕は、いつも自由だった。思うままだった。誰のものでもなくて、その時だけは僕はミツルのものになれたと思ったし、ミツルも僕のものだと思った」
 だからね、とレオは肌を月光に捧げながらこちらへ歩いてきた。彼にゆっくりと近づき、唯一傷のないその瞳に僕自身を映す。汚したくてたまらい。
「僕は、ミツルのすべてを受け止めるよ。たとえミツルが、人じゃなくても」
 ミツルが倒れて初めて、僕の手がミツルの頬を張り倒したことに気づいた。ミツルは舞い散る埃の中で震え、白い歯の中に彼岸花を咲かせ、それを僕に見せるよう口角を上げた。よどみなく潤んだ瞳の中には僕だけが写っている。
「いいよ、もっと、もっとミツルを頂戴」
 僕に両手を広げたレオの、細い喉仏を両手で握り潰した。ヒクヒク、と鳴くレオの声は猫の鳴き声にはない高く甘い響きを帯び、心の奥底にしまった欲望を誘惑する。まどろみにも似た瞳すら犯され、すべてが僕に染まっていくレオは、今まで夢見たどんな死よりも甘美で、官能に満ちていた。どんなに触れたくても我慢していたレオの首を、自分は締めている。それは細く、小さく躍動し、それでいて生命の鼓動をたたえて熱く、柔らかかった。レオが苦しんでいる。レオを殺そうとしている。レオを、消そうとしている。背中に回されたレオの指がワイシャツ越しに食い込む。細い足が痙攣して床を揺らす。微笑むレオの顔が悲しみに暮れ泥んだ時、僕の腕はレオを抱きかかえていた。
「どうして」
 レオは咳き込み、乾いた声に混じって、ほとんど空気に溶かしたように言葉を吐き出した。
「レオがいなくなったら、僕は誰にも受け止められない」
 レオの肩甲骨に手を回した。硬い骨を優しくなぞると、確かにレオは生きていて、僕の中にいるんだと感じる。汗に濡れた鎖骨に絡みつく。この体温が世界から消えてしまったら、欲望を飼い慣らせなくなる。
 どこでもいい。僕から逃げてくれ。この世界のどこかで僕を認めてくれる人がいる、欲望を受け止めてくれる人がいると思えたなら、僕は許される。自然と腕の力は床に吸い込まれていった。
「ミツル」
 耳元で囁かれた名前は、誰が呼ぶよりも愛おしさに満ちている。力なく回された腕は、折れてしまいそうなほど細かった。
 僕らは月光の入る隙間がないほど強く抱きしめあって、お互いの体温を感じながら、互いの名前を呼び合い、泣いた。
 その夜から、僕たちは一度も会わなかった。

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