掌編「たゆたふ」武村賢親

 ベビーベッドに寝かせた拓篤が寝返りをうつ気配がわかるほどの沈黙のなかで、和美が身体を少し動かすたびに、チェリー材のダブルベッドが微かにきしんだ。不惑を目前にしてセルライトの一筋も見当たらない和美のふくよかな太ももがシーツの上にゆったりと伸びている。義雄はベッドの縁に腰かけて、起きがけの頭の重さが去るのをじっと待っていた。起きているときには気にもならない和美の呼吸がずいぶん大きく聞こえる。その聞こえ方が左右の耳で違うことに、義雄は小さく溜息をついた。

 モールス符号のツーという信号を真綿にくるんだような音がこめかみのあたりでずっと鳴っている。義雄の受けた聴覚検査の結果によると、無事な耳を十とするなら、不調をきたしているほうはだいたい七割くらいの聞こえ具合だった。耳孔に完璧にフィットするイヤフォンを常時片方にだけつけている気分だ。

 耳の調子が悪くなってきたのは、拓篤が生まれて、仕事と育児の両立に悩まされるようになってからだった。ストレス性の難聴だという診断を初診の耳鼻科医院で受けた。もとよりストレスを発散させることが苦手な義雄にとって、慣れない家事や育児で鬱憤がたまるのは仕方のないことだが、それよりもいまは、片耳だけがつねに水に浸かっているようなこの症状のほうが、普段の生活よりずっと重いストレスになっている。まだ数か月のつき合いで
しかないのに、義雄はしんそこ嫌気が差していた。

 ふいに、少しだけ開けた窓の向こうで、誰が放したのかわからない痩せた錦鯉の尾が小さく波をたてるのを、義雄はなんともないほうの耳で聞いた。餌をやればすごい勢いでまわりの水ごと吸いこむくせに、方向転換するときの尾の振り方だけはいつも弱弱しく、何度も水をかいてやっと向きを変える錦鯉。他の黒っぽい鯉は力強いひとかきで豪快な波音をたてるのに、そいつの尾びれは、犬が水を舌ですくって飲むように、何度も水面を鳴らすのだ。

 まだ拓篤が妻のお腹の中にいたころは、仕事の帰りに県道沿いのベーカリーで買ってきたパンの耳を、その錦鯉めがけて投げこむこともあった。ビニール袋いっぱいに詰まっているパンの耳は、一袋二百円で、二日ももたずに空になる。川へとまくついでに義雄がちょこちょことつまみ食うのだ。これで少しは太るだろう、と言って窓際から戻ってくる義雄のカーディガンにこぼれたパンくずを、あまり動き回れない妻は自分のお腹をなでるのと似た動きで、やさしくはらってあげるのだった。寝室の窓から見下ろせる鮮やかな大正三色は、聴力がほとんどなかった彼女にとって、毎日のちょっとした楽しみとなっていた。

 相手のひとが音を聞くことができないというだけで、義雄の両親は遠回しに二人の仲を非難した。ぼくはいろいろと覚悟したうえで付き合っているんだ、と義雄が真剣に話をしても、そうねぇ、でも会話するのも大変でしょう、筆談とかしているの、と中途半端に話題をそらすのである。しびれを切らしたふたりが半ば駆落ちするようにして強引に結婚してしまうと、流石の両親もしかたがないなといった様子で妻を家へと招き入れた。しかし、同居
して半年、両親から妻への陰湿な嫌がらせが発覚したために、義雄は実家を捨てる決意をする。妻の父母は彼女が高校生のころになくなっていたため、頼る相手は共にお互いしかいなかった。ふたりは県内の安いアパートで部屋を借り、こたつを出せば窮屈に感じるリビングで、将来、ぼくらだけの家を建てよう、という夢を共有しながら、身を寄せ合って細々と暮らした。実際にふたりがその夢を叶えたのは、もう子どもを持つには遅いだろうと言われる年代に差し掛かったころである。それでも妻が拓篤を身籠ったのには、義雄の、妻に対するささやかな思いやりによるところが大きかったと言わざるをえない。

 いまの家を建てる際に、義雄は妻に秘密で、寝室にだけ簡単な防音加工を施していた。あなたと同じ音を聞けないのはとっても残念、といっていた彼女のために義雄が注文した同じ音を聞くためだけの仕掛けは、あとになって妻にバレるのだが、ふたりの仲をあたためるのに十分な効果を発揮した。

 また外で、波のたつ音がする。あの錦鯉が尾ひれを振るっているのだ。
義雄は窓辺に近づいて北川の水面を見下ろした。パンの耳をやっていたころも、やらなくなったいまも、ずっと痩せたまま、下手くそな方向転換でピチャピチャと音をたて続けている。お前だけが変わらない。

「どうしたの?」

 くぐもった音しか拾わない義雄の耳に、鈴を転がすような和美の声が聞こえた。振り向いた義雄の視線の先で上体を起こした和美は、薄い肌掛けを胸元まで引き上げて、不思議そうに義雄を見ていた。こわばった表情のまま、なんでもないんだ、と応える義雄に和美がなにか言おうと口を開いた瞬間、う、う、う、という前置きをおいて、不満をぶちまけるような拓篤の泣き声が寝室中に響いた。

 下着姿のままベビーベッドに駆け寄る和美の背中に、うんちでも出たのかな、と言葉を投げかけて、義雄は寝室を出て台所へと向かった。行きがけに、手のひらで耳を揉む。まるで水の中にいるみたいに、自分の発した言葉がもごもごと鼓膜の裏側でとどこおっている。また少し悪化したのかも、と義雄は再び溜息をついた。

 台所で、棚に並べられた調味料群の中から粉ミルクの入った缶を選び出す。壁の時計を見やるとブランチの時間に差し掛かっていた。

「ねぇ、オムツ、汚れていないわよ」

二階から和美の声が降ってくる。

「それならお腹がすいているんだろう」

 義雄の耳に音量の違うふたつの泣き声が聞こえる。こう聞こえ方が違うと、なんだか身体の輪郭まで左右で違っているように感じるな、と義雄は思った。

 哺乳瓶を冷ましている間、ふと、寝室の扉を閉めきったら拓篤の泣き声も聞こえなくなるのでは、という考えが義雄の脳裏によぎった。義雄の記憶の限りでは、妻がなくなってからというもの、ただの一度も寝室の扉を閉めきったことはなかった。

 ひとつ小さくうなずいて、義雄はしずかにきびすを返した。

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