琳琅 第二号より、「ヴァン・ダ・イールー渓谷の民」武村賢親

 薪の爆ぜる音に顔を上げると、族長の白濁した瞳とぶつかった。話し合いを終えたらしい彼は私をこの集落まで引きずってきた者に何事かを命じている。どうやら私を別の住居へ移らせようとしているらしい。槍で牽制されながら集落内を移動すると、住人はたいして多くはなく、小規模の集落であることが判明した。余所者が珍しいのか、後をついてくる者もいれば、遠くから睨みつけるように視線を投げかけてくる者もいる。皆一様に布で顔を隠し、同じようなほの暗い色の装束を身にまとっていた。

 連れてこられた小さな住居で彼らと同じ装束を手渡されたとき、私はなんの意図があるのかさっぱりわからなかった。それは現在も同様で、どうして私は彼らと共に生活しているのか、また、生活することを許されているのか、まったくもってわからないのである。

 再び叩きつけられた槍柄の音に我に返ると、鼻先に槍の切っ先が向けられていた。つい凝視してしまっていたことが気に障ったらしい。慌てて切っ先の軌道から顔を避けて、黒く染められた装束に視線を移し、袖を通していく。その間も刺すような視線が背中に向けられているような感覚が離れず、時折流し目で背後の様子を伺ったが、ヌェラも濡れた装束を脱ぎにかかっていてもう私のことは眼中にないようだった。

 腰丈程の前袷の羽織と両足を別々に覆う長い筒状の布。それらを縛る布紐まで黒一色だ。両端に深いスリットの入った長い腰布は他のものより薄手だが、感触はやわらかく、頑丈に編み込まれている。彼らの装束はどれも黒や仄暗い灰色をしており、装飾の類は一切ない。外界との交流のない彼らがどのようにしてこれらの衣類を得ているのか。細かいことは不明だが、集落から少し離れたところに背の低い植物が密集した場所があり、踏み入ることは許されなかったが、遠目に観察したところアサに似た植物が群生していた。規則的に畝が作られていたところをみると、おそらく栽培しているのだろう。もしあの植物群がアサの仲間だとしたらこの装束の謎が解ける。アサの茎から採れる繊維は古くから衣類に使われてきた馴染みの素材だ。色が黒いのは雨を吸った土壌に原因があるのかもしれない。彼らにとってこれらの衣類は渓谷の景色に溶け込むカモフラージュの役割を担っているらしく、狩りなどの隠れる必要がある場面でこの無彩色の装束は絶大な効力を発揮していた。

 彼らの狩りは枝と蔓を組み合わせた罠を仕掛けるところから始まる。獲物が掛かると輪になった蔓の先が締まって巻き付き、動きを鈍らせる仕組みだ。何カ所かに仕掛け終えると獲物を探して谷を延々と歩き回る。足音を殆ど立てず、頭を低くして地面を滑るように移動する彼らの姿は、少しでも目を離すと黒い景色に紛れてわからなくなってしまいそうなほど素早く、戦士と言うよりは密命をもって影に潜む密偵のようであった。手ごろな大きさの生き物を見つけると、音を立てない独特な歩法でそれを囲うように広がり、徐々に距離を詰めていく。この時、カモフラージュの装束の他にもう一つ、重要な要素が効果を発揮し始める。それはこの集落に連れて来られた初日に嗅いだ、モモを思い出させる甘い香りであった。彼らの朝は強く甘い匂いをはなつ香油を身体に塗り込む作業から始まる。目覚まし時計でしか起きられない習慣を持つ私は毎朝ヌェラに蹴り起こされているため、彼の同居人が身体に香油を塗りこむ姿を直接見たことはないが、早朝の集落ではいたるところから頭をくらくらさせるほどの強い匂いが漂ってくる。戦士の身体から発せられる香油の香りに気付いた獲物はこの匂いを警戒し、匂いのしない方、しない方へと逃げるのである。本来果実に似た甘い匂いは動物を引き付けるはずだが、彼らは遥か昔からこの猟法を続けていたため、少しずつその匂いの正体が動物たちに刷り込まれてゆき、この匂いは危険だ、と動物たちに判断させるまでになったのだろう。そうなってしまえば戦士たちの計略どおりで、あとは獲物を罠がある地点まで誘導し、罠にかかって動きが鈍ったところを鉱石から削り出した槍や短剣で仕留めるのだ。

 捕らえた獲物は一度一カ所に集められる。粘土質な地面に槍を突き立て、そこを中心として円を描くように獲物を並べてゆく。半ば強引に連れてこられただけの私も手伝うよう促され、掌ほどの大きさのネズミを、頭がちゃんと槍の方へ向くようにして円に加え入れた。

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