掌編「たかんな」

 若竹汁という聞きなれない単語もさることながら、ズンと重かった筍の、穂先八センチ程度しか使わないという贅沢さにも驚かされる。そもそも土を落として皮を剥く段に至って、すでに驚きの連続だった。さんざん苦労してやっと掘り起こした顔より大きな筍が、食べられる部分まで外皮を剥がすと、手のひらに収まるほどの大きさになってしまうのだ。

 大きく膨らんだイボから白い毛を数本はやした祖母の隣に立って、筍の皮を剥く。弟ふたりはまだ外にいて、掘り起こしてきた筍の土を、十秒と浸していられないくらいに冷たい井戸の水で、指先を真っ赤にしながら洗い流しているはずだ。鍋で灰汁抜きをしている祖母の、勝手口と、天井から垂れ下がっている蠅取り紙と、蛍光灯の光を反射する花柄のゴムタイルがまだ息をしている台所にぴたりとはまったような横顔を眺める。味みてみるか、という東北訛りの優しい声におたまを受け取り、薄く色のついたゆで汁を啜ると、筍の風味よりも灰汁のエグ味のほうがずっと大きい液体に思わず顔をしかめる。これはね、最後にちょびっとだけ入れるんだ、そうしたらお吸い物に深みがでて、何重にもおいしくなるのさ、と言った祖母は、私が残した汁をくっとあおって、何でもないような顔をする。

 鰹節でとった出汁に醤油と塩で味をつけ、塩抜きしたわかめと一緒に茹でた筍を入れる。

 たったこれだけの工程ながら、完成したお吸い物はかつて目にしてきたどの吸物にも当てはまらないような興奮を、私に抱かせた。

 竹の葉が降り積もった地面からほんのすこし盛り上がっている場所を探し出し、目標を傷つけないよう気をつけながら周囲の地面を掘り下げ、鍬の先端を振り下ろして一気に根から切り離すまでの一連の作業は、湿った土の匂いもあいまって、気持ちの良いくらいの集中力を与えてくれる。こんなに真剣に食べ物と向き合ったことがあっただろうか。籠いっぱいに筍を採って平屋造りの家へ戻る道中、私は自分の食習慣を省みていた。東京では、食材
は採ってくるものではなく買ってくるものだ。当然、私が負担するのは金銭のみで、料理しても、テレビを見ながら漫然と口に運ぶことが常である。それじゃあダメだぁ、と毎年のように祖父が言う。自分が何を食べているのか、それは知っていなきゃならん、それが食べる側の責任つうもんだ、と。

 漆塗の器に汁を注ぎ、木の芽を彩りとしてそえる。湯気香る一汁に堪らず一口啜ってみると、筍とわかめの混ざり合った絶妙な風味が鼻を抜けていき、喉を伝った液体が身体のすみずみまでを温かくしてくれるようだった。

「まだできてないよ」

 仕方ない子だねぇ、と続けた祖母が筍の煮汁をほんのすこし、椀の中へたらす。先ほど味わったエグ味に身構えながらもう一口ふくんでみると、竹林で味わったあのゆたかな土の匂いが脳裏をかすめていき、鍬の先に当たる石の感触や、根から離れる瞬間の、繊維が音をたてて千切れる瞬間が、ほんの香る程度しかない灰汁の苦みから蘇る。思わず筍をかじった私に、祖母はうまいだろうと微笑んだ。

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