連載「若し人のグルファ」武村賢親39

 ハンドルを握る手が震えている。

 仕事の報酬も受け取らず、俺は逃げるようにして煙の国から抜け出してきた。

 やっと冷房が効いてきて、のぼせたような頭に冷静さが戻ってくる。しかし気を抜くと自分の服や髪の毛からあまい香りが鼻に触れ、悪夢のような地下での出来事が蘇ってくる。

 母親への復讐。それが小糸の目的だった。

 マティファはそのための道具でしかなかったのか、俺が苦しまぎれに発した問いに、あいつはまた意外なことを言った。

「たしかに、あの子はそのために引き取ってきたわ。けど、引き受けた責任はちゃんと果たすつもり。途中で投げ出したら、それこそお母さんと同じだから。あの子が独り立ちしたら、もうなにもしないわ」

 雨が降ってきた。今朝の天気予報に反して、白く煙るような土砂降りだ。細かに跳ね上がる水しぶきの向こうから小糸がこちらを見つめている。当然そんなことはないのだが、いくら新大久保から離れようと、まさしく煙のように、小糸の思念がまとわりついてくるようだ。

 空席の後部座席を見やる。俺たちが似ていると、マティファはこの車の中で言った。

 似ているどころか、正反対だ。まるで崖の上から谷の反対側を見るように、俺たちの間には深い溝があった。彼女が似ていると言ったのは、たんに関係性の構図でしかない。向こうは血がつながっていながらお互いに大きな欠陥を抱え、俺たちは血を分けた兄弟ではないが、お互いのことを理解しあっている。

 一緒にするなと叫んだ俺に、小糸は冷たく、どうかしら、と言い放った。

「欠陥に愛着を抱いているのは、むしろあなたの方でしょう――」

 ブレーキが、遅れた。

 決して広くはない道で、カーブの向こうから現れた対向車と、すれ違いざまに接触する。サイドミラーがぶつかり合い、がこんっ、と鈍い音が響いた。

 すぐに車を停車させて車外へと出たが、接触した車はそのまま走り去ってしまった。

 愛車のすこし後方に砕けた鏡が散らばっている。サイドミラーの枠がすぐ足もとに落ちていて、それは音のわりにわずかにへこんだ程度だった。もとの場所に宛がって軽く叩いたら、いとも簡単に収まった。

 思わず、あぁ、と息がもれる。

 後続車がいないのを良いことに、俺はたっぷり時間をかけて、雨に震える愛車を見下ろした。

 へこんだサイドミラー、喧しいエンジン音、外れかけたホイールカバー、擦ってささくれ立つハザードランプ。味と思った傷のすべてが、今回ばかりはただのボロに思えた。

 衝動のままに足を振り上げ、力いっぱい蹴り込んだ。

 一度、二度、三度と蹴って、四度、五度、六度、七度。

 八度目でようやくホイールカバーがはまる。

 仰向いて、打ちつける雨を全身であびた。

 対向車が横切っていく。子どもがふたり、後部座席から俺を指さしていた。

 運転席に戻る。車内は寒いくらい冷えており、冷房を切って窓を開けた。

 一瞬の隔絶にもかかわらず、外の湿気を気持ち悪く感じた。

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