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【短編/恋愛】今、やらなきゃいけない気がした。

 休みの日、夫はソファーに座りまったりとテレビを観ていた。大して面白くもないお笑いコントを観ながらうとうとしていると、妻の部屋から何やら物音が聞こえてきた。さっきまで昼寝をしていたが起きたのだろう。
 物音がしてから三十分が経過し、夫は流石にリモコンを持ちテレビを消しソファーから立ち上がる。妊婦である妻のお腹は大分大きくなった。できれば安静に過ごしてほしい。夫は妻の部屋に向かいノックをすると、中から妻が「入っていいよぉー」と返事をしてきた。夫はドアを開けて入ると、妻のしている行動に深く溜め息をついた。
「片付けたくなったの……凄く。」
「何で?」
「片付けなくちゃいけないの」
 妻は自分の部屋を片付けていたのだ。片付けなど子供が産まれてからでも良いし、何なら自分に任せてほしいと夫は思う。夫は妻に指示を出してくれれば自分がやると言ったが、妻は首を横に振った。どうしても自分で片付けたいらしい。
 床には沢山のスケッチブックが置かれている──妻が今まで描いてきた絵だ。ぱっと見何故妻のだとわかるのかというと、夫は妻の幼馴染で、昔から絵を描くのが好きだったのを傍で見ていたからだ。
「自信の無い作品や過去の失敗した絵は捨てる。上手くいったなって思う作品だけ残すの。」
「今片付けなくちゃ気が済まないの?」
「済まない。」
 夫は考えた。ここは体の為に止めておくべきか……けれど、妻は妙に頑固なところもあり、こうなるといくら説得しようとも無駄な事も昔から知っていた。激しく運動をする訳でもなく、自信のある作品と自信の無い作品を分けたりするだけだ。夫は仕方なく許可を出すと、妻は「ありがとう」と言って微笑んだ。

 翌日、妻が昔の友人達に会いたいと言い出した。これも子供が産まれてからでも良いのではと夫は言ったが、妻は困った表情を浮かべながら「どうしても」と夫に頼んだ。
「どうしても今、会わなきゃいけないの?」
 妻は頷く。床に置いてあるのは紙袋、紙袋の中身はCDや本や道具だった。それは全て昔の学生時代に友人に借りた物らしい。卒業してからなかなか会えず、返せる機会がなかったらしい。別に今返さなくても良い気がしたのだが、妻はやはり「どうしても」と頼んできた。一人で行かせる事だけは避けたかったので、夫は仕方なく妻を車に乗せて一緒に行く事にした。
 その日は久しぶりの友人との再会だったため、妻は友人の家で少しだけお邪魔させてもらう事にした。夫は妻とは幼馴染の関係、妻の友人ともそこそこ学生時代に三人で笑い合っていた仲なので、お茶会も気まずくはなかった。
 友人は「お腹大きくなったねぇ」「名前はもう考えたの?」等、わくわくした様子で二人に質問する。気さくな人なのだが、お喋りが大好きなのでつい質問をしまくってしまう。たまに喋り過ぎたと我に返り慌てて謝る友人の様子は昔からで、二人はいつも面白いなと思ってしまう。二人でからからと笑うと、友人も少し照れくさそうに笑った。

 そのまた翌日、今度は妻が夫と出掛けたいと言い出した。今でなくても産まれてからいろいろ落ち着いた頃でも良いのではと言ったが、妻はやはり「どうしても」と頼んできた。
 毎回夫が妻の頼みを断れなかったのは、妻の表情が毎回真剣だったからだ。妻は普段穏やかで、よくぼーっとしていることが多く何を考えているのか夫でもよくわからない時がある。そんな妻が真剣な表情で真っすぐとこちらの顔を見て頼んできたら……断れなかった。
 妻が行きたがったのはとあるデパートの屋上だった。恋人だった頃、二人はよくデートの時に来ていた場所だった。人が少なくなった夕方の時間帯、このデパートの屋上から眺める町の景色が妻はお気に入りだった。これから帰る学生達の歩いている様子、仕事帰りかまたは仕事中なのか混んでいる車の渋滞。
 妻は人々がそれぞれ目的地に向かおうと動いている様子が沢山見れるのが大好きだった。皆一生懸命生きて日々行動している事を、この目で見て実感できる。
 そういえば、たまに妻はこの景色をスケッチブックに描いていたのを夫は思い出した。あの絵は捨てていないだろうか、いつか……いや、二人の子が産まれたらきっと妻は今度は我が子も一緒にこの景色を描いてくれるだろう。
 妻は後ろで手を組みながら俯いて、夫に背中を向けたまま「ごめんね。わがままばっかり」と謝る。夫はその言葉に苛立たないで、ここ最近我が儘が多いくせに急にしおらしくなる妻に笑ってしまった。夫は妻に近づくと隣に並ぶ。
「良いよ、お前の気が済むならさ」
「ありがとう……。」
 夫の心の広さに、妻は自分は素晴らしい夫を持ったんだなと改めて感じ、自分は彼との子供が作れて良かったなと思いながら、大きくなったお腹を両手で撫でる。
「最近は来れてなかったね、此処」
「まぁな……」
 妻は後ろを振り返り、屋上に置いてある子供の遊具等へゆっくりと歩き出した。幼稚園児の頃、二人は両親とこのデパートの屋上に来ては遊具で遊んでいたのをうっすらと覚えている。
「懐かしいなぁ……ほらこの熊の乗り物、椅子が固すぎてお尻が痛くなったやつ!」
「なのに母さん達、なんかこの熊にお金入れんだよなぁ」
「お尻痛いって!」
 そんな思い出話にけらけらと笑う二人。散々二人で笑った後に夫は「子供が産まれたらさ、家族で此処に来ような」と微笑んで妻に言うが、それに対し妻はピタリと笑うのをやめ無表情になる。
 急に黙り込んだ妻に夫はどうしたんだと思い一瞬戸惑うが、妻は幸せそうに柔らかく微笑んだ表情になり夫を見つめる。
「どうしたんだよ」
 それでも不安な夫はそれを誤魔化すように笑いながら聞くが、妻は微笑んだ表情のままだった。そんな妻を夫は黙って優しく包むように──まるで割れ物を扱うように抱き締めた。


──子供が産まれた。夫は脇にスケッチブックを挟み、子供を優しく抱きかかえながら妻と来ていた夕方のデパートの屋上に来る。夫はデパートの屋上から町の様子を眺める。妻が生前していたように、人々がそれぞれ目的地に向かおうと動いている様子を見て、皆一生懸命生きて日々行動している事をこの目で見て実感する。子供もいつかこの景色の人々の中に入り、皆と同じく歩いていくのだろう。
 夫は妻と最後に此処へ来た時に、夫は妻が今度は我が子と一緒にこの景色をスケッチブックに描いてくれるのだろうと思っていたが、この景色と一緒に子供が描かれる事はない。しかし、あの日家に帰ればこの景色の絵は捨てられずに残っていた。妻は子供をこれから先自分の手で描けなかったとしても、せめてこの景色の絵だけは残してくれたのだろう。
 夫は近くのベンチに座り脇に挟んでいたスケッチブックを開いて子供と見ながら、少し寂しそうに笑みを浮かべ呟く。
「感じてたんだな」
 何も知らない我が子は不思議そうな目で目の前の絵を見ている。夫の左目からぼろりと涙が零れ顎まで伝い、子供の左頬にポタリと落ちた。
 妻は感じていたのかもしれない。自分がこの世を去る前に、心残りがないように“今、やらなきゃいけない気がした”のだろう。……ただ一つ、妻には心残りがあったみたいだ。
 夫の想像はどうやら当たっていたらしい。この景色を描いたページの隅に、つい最近書いた文字なのか、鉛筆で“一緒に描いてあげられなくてごめんね、お腹の子。それからありがとう……愛する人。”と書いてあった。
 この世を去る前に、妻は我が子をこの景色と一緒に描いてあげられなかった代わりにこの絵を残し、夫との最後の思い出のために此処へに来たかったんだと……今ならわかる。だからあの時、夫が子供が産まれたらまた此処に来ようと言っても何も答えられなかったのかもしれない。
「ありがとう。」
 自分がそう呟いた横で、妻が微笑んだ気がした。

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