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私が小説家になるまで。

読んでもいいし、読まなくてもいい。
これは長い、私の独白。

私が小説を書き始めたのは、8歳の頃だ。
最初の話は「ナイト スカイ フライ」というお話だった。
親に、「夜って英語でなんて言うの?空は?飛ぶは?」と聞いてつけたタイトル。
だから日本語でのタイトルは「夜空を飛ぶ」だが、その頃は英語を知らなかったので仕方ない。
二人の少年と少女が空を飛びたいと願い、不意に飛べるようになった、そんな話だった。

お話を書くのは誰が教えたでもなく、ただ好きでやっていた。
小説家になりたいと思うきっかけとなったのは、小学校2年生の頃、「ソメコとオニ」というお話を国語で勉強したことだった。
「ソメコとオニの続きの話を書きましょう」
そう言われた私は、ソメコがまた同じような目に遭わされる面白いパロディみたいな話を書いた。
これはクラスでみんなが大笑いするほど大ウケで、私はお話を書くのが大好きになって、小説家になろうと思った。

五年生の頃にはさくらももこの影響を受けて、エッセイを書き始めた。
六年生の頃は、はやみねかおるの影響を受けて、推理小説を書き始めた。

推理小説「うぐいすシリーズ」は全5巻。「3✖️one」シリーズは全3巻の大作になった。
イラストとあとがきはもちろんのこと、バーコード、カバー、推薦文入りの帯までついている本オタクっぷり。

作文はやはり得意で、夏休みなどに作文を書くとかなりの確率で賞に入った。
しかし入らないと「残念だったね」と皆に励まされ、逆に情けなかった。

中学生の頃、光文社文庫の「奇妙に怖い話」というアンソロジーの賞に佳作で入り、単行本に小説が載せてもらえることになった。

初めて、印税をもらった。

自分が小説でお金を稼げたことが、とにかく嬉しかった。
初めて自分で稼いだお金で、親にスプーンを買った。
なんでスプーンかというと、入ったお金は微々たるものだったので、あまり高額なものが買えなかったからだ。

だけど、初めての収入で何か親に買えたということが、とにかく誇らしかった。
中学生の自分が小説でお金を稼げたということは、かなり自信につながった。

高校生になると、ホームページを開設した。
「noidolHP!」というホームページで、とにかく文章を世に出したいという想いで、独学でHTMLをひとつひとつ学び、どうにかホームページを運営した。

ホームページはおもにエッセイを載せたが、トータルでその後10年ほどホームページは続けたので、のちには小説、詩、漫画評論、イラストなど、なんでもありな感じになった。

この頃になると、私は小説の賞にもたくさん応募していた。
しかし賞にはなかなか入らなかった。
どうしたら賞に入るのか、全くわからなかった。
しかしヒトツキに一回のペースで新人賞に粛々と応募し続けた。

そんなある日、私は職員室に呼ばれた。
何かと思ったら、担任が興奮した様子で、高文連で私の小説が大賞をとったと話した。
へなへなと力が抜けるほど嬉しかった。
「おまえ、小説なんて書いていたのか」と言われて、実は新聞の切り抜きで高文連の賞にも応募していたし、文学賞にずっと応募していたのだと話した。

すると今度は家に、北海道新聞の記者から電話がきた。
取材させて欲しいと言われて、私は執筆に関して取材を受けた。
あまりの一大事に手がブルブルと震えながら、「死ぬほど嬉しいです!」と語った。

ところがそのとき、記者が話す私の小説のタイトルと、実際のタイトルが違うし、内容もちがうことに気づいた。
記者が得ていた情報と、私の書いた内容が食いちがう。
何かおかしいので、確認すると言って電話はきれた。

嫌な予感がした。

そして、嫌な予感は当たった。

翌日、担任の先生から、私の受賞は間違いだったと伝えられた。

地獄に落とされた気がした。

悲しくて、悔しい。
しかし何より私を打ちのめしたのは、恥ずかしさだった。
何が、死ぬほど嬉しい、だ。
何が、小説賞にずっと応募していた、だ。

今まで小説を書いていることを秘密にしていたのに、クラスにも先生にも親にも全部バレた。
しかもあんなに嬉しそうに、自分が小説を書くのがいかに好きか話したのに、実際には何の賞にも入ってないなんて。

部屋で泣いている私に親は、「でも最終選考に残ったのは、間違いないんだって」とよくわかんない励ましをした。
「そんなこと言ったって、賞に入らなきゃ、意味ないよ!」
そんなことを言って八つ当たりする自分が、みじめだった。

新聞記者からの連絡はついぞなかった。
高文連からの謝罪もまったくなかった。
バカにされたような気がした。

とにかく私は打ちのめされた。
ただ小説が好きで、書いていただけなのに。

私はもう、小説なんてつまらないものを書くのはやめようと思った。
小説賞に応募するのも、もう怖い。

しかし、ホームページだけは続けた。

そんなある日、チャットで知り合った人が、自分は編集者だと話し、もし会ってくれたら、小説を読んであげると言った。

小説の賞には入らないし。
間違いだったし、もうどうしていいか、わからないし。

藁にもすがる思いで、私はその人に自分の小説を見てもらうことにした。

ネットに関するリテラシーが発達した今ならあり得ないと思うが、ネット初期、Windows95時代で、スマホはPHSだった当時は、人に会うとか、普通にあった(念のため言っておくけど、今はあり得ないよ!)。

しかし私は北海道在住で、編集者は東京の人だった。

私は親友の家に遊びに行くと言って朝出かけ、そのまま電車で札幌駅まで行き、乗り換えて新千歳空港に向かった。
そしてあらかじめ取っていた航空券で飛行機に乗りこむと、原稿だけを握りしめ、東京へ向かった。
16歳だった。

空港へ降り立ち、編集者に連絡をとった。
彼は私が本当に来たことに驚きつつ、仕事が終わる夜まで会えないといい、私は一人で、見知らぬ東京の路上で時間を潰した。

夜にようやく会えた彼は、最初に名刺を渡すと、食事を奢るといった。
私はすぐにでも原稿を見てもらいたかったが、とにかくお腹も減っていたし、夜ご飯を食べることにした。

それから‥。
とにかく私は、原稿を見て欲しいと何度も食い下がり、原稿を読んでもらうことに成功した。

彼は私の小説を読むと、誤字脱字のなさ、文章力の高さは褒めたが、内容については何も触れなかった。
私はひどくがっかりした。

そしていろいろあって、翌日、私は北海道へ帰った。

自分でどんなアドバイスを期待していたかもわからないけれど、有益なアドバイスはもらえなかった。

しかし彼が某雑誌の本物の編集者であることはウソではなかった。
私のホームページは彼の雑誌で取り上げてもらえた。
そして、私のホームページは少しだけアクセスが増えた。
後日、彼は理系雑誌の編集者であり、文系は畑違いだったことを知る。

それから私は弘前大学の人文学部に進学し、下宿で暮らすことになった。

大学では勉強に力を入れ、ホームページも続けていたし、文学賞にも応募できるようになるまで気持ちは回復した。
しかし依然として、小説家になるにはどうすればいいかわからず、応募は続けていたが、賞にも入らなかった。

そんなある日、私の応募したエッセイを読んだ文芸社の編集者から連絡が入り、ぜひエッセイを本にしないかと勧められた。
あまりの嬉しさに、私はホームページで書き溜めた大量のエッセイを編集者に送った。

編集者は私のエッセイを褒め、ぜひ本にしたいと言ってくれた。
しかし彼が提案したのは「協力出版」という形だった。
本を出版するには200万円が必要だった。

そんな大金は、持っていない。
しかしこの機会を逃せば、きっと私は一生、本など出せない‥。

8歳の頃から小説を書いていて、小説賞に送った回数は、すでに100回どころじゃなかった。
自分の実力を、知っている。

私はきっと一生、小説家にはなれない。
このチャンスを逃したら、本をだすという夢は、きっと一生、叶わない。

悩んだ私は、自分の今までの貯金の20万を頭金にし、残りはローンで払おうと思った。
卒業後は仕事もするだろうし、何年か支払い続ければ、きっといつかお金は返せる。

しかし私は無職の学生で、ローンを組むには親の承諾が必要だった。
私は北海道に帰ると、親に頭を下げた。

「私はどうしても本を出したい!これが最後のチャンスなんだ!」

どうか、ローンを組ませて!
お金はちゃんと、自分で払うから!

必死に、頭を下げて、親に頼んだ。

「200万は、私たちが出すよ」

すると、親はいきなり、そう言った。

驚いた。

のちに、私の姉は物欲の強い浪費家だったが、私は欲しいものがほとんどなく、育てる上で全然お金がかからなかったことや、私立の大学に行くと思ってお金を積み立てていたのに、国立大学に進学するという思わぬ嬉しい誤算などがあり、想像以上に私にお金がかからなかったこと、そんな私が欲しいものがあると言ったら、買ってあげようと親が思っていたことを知る。

そんなつもりはなかったけど、塾にも行かず習い事もせず部活もいかず、欲しいものもなく、無骨にひたすら小説を書き続けた質素倹約な私の日々が、助けになった。

そして私は、2003年「胸を張れ!小心者」というエッセイ集を出版した。
大学二年生の頃だった。

想像通り、本は大して売れなかったし、お金は大変にかかった。

しかし大学生で本を出したことは、私の人生の大きなターニングポイントになった。
そして予想外の嬉しいプレゼントがたくさんついてきた。

私はまず、本を出したことを下宿のお母さんに話した。
すると人生経験豊富な彼女はタウンページを出すと、「大学生協に連絡して、本を置いてもらえ」と言った。
そんなに簡単に置いてもらえないよ、なんて思ったけど、彼女の迫力に押されて電話すると、私の本はすぐに大学生協に置いてもらえることになった。

そして彼女は、青森県の二大新聞「陸奥新報」と「東奥日報」に本を送るように言った。
彼女を信じ、言われるままに、私はそこに本と手紙を送った。

するとすぐに「陸奥新報」から電話が来た。
驚く私は、取材してもらえることになった。

私は取材を受け、カラー写真つきで結構大きく、「弘前大学二年生の山本李奈さん、エッセイ集を出版」と取り上げてもらえた。

するとその新聞を見て、「アップルウェーブ」という青森のラジオが、私にラジオのオファーをしてくれた。
私はアップルウェーブともう一つのラジオ2社に出て、初めてラジオで喋った。

さらに大学の先生が、もう一つの新聞社から連絡が無いことを聞くと、卒業生である「東奥日報」の記者に連絡してくれて、東奥日報でも私の記事をとりあげてもらえることになった。

しかも驚くことに、新聞やラジオで私が話題になったことを知り、ついには地元テレビ局のプロデューサーが私にテレビに出ないかと言ってくれた。

プロデューサーは私の下宿や友人にインタビューしてカメラを回して映像を撮り、後日、私はテレビ局のスタジオに呼ばれ、生放送で本について話した。

このトントン拍子の想像もつかぬ事態に、私はとにかく驚いていた。

さらに私は陸奥新報の記者の方に、新聞にコラムを書かないかと話をもらい、毎月、新聞に自分のコラムを書く欄をもらえた。

さらに私は新聞社の「委嘱リポーター」という肩書をもらい、学生ながら記者として、毎月体験取材記事を書くようにもなった。

そしてその記事が話題を呼び、国土交通省の広報誌や地元の雑誌などからも、記事を書くオファーを次々と受けることができた。

やがて私は就職活動をする歳になった。
私は、小説家以外でも、文章に携われる仕事につきたい、と思うようになった。
青森で自信をつけた私は、出版の聖地である東京へ行こう、と思った。

私は東京のマスコミ関係で仕事を探すことにした。出版社、新聞社、テレビ局、広告会社‥。

しかしエントリーは100回。
一社も受からなかった。

就活を始めたのは人より早かったが、みんなが就職を決める中、私だけは、どこにも受からない。

どんどん焦る。文章を書く仕事につくのは、なんと難しいのだろう。

そんな東京で就職活動中、彼氏は別の子に浮気していた。
私は彼と別れたが、元彼氏も浮気相手も就職が決まっていたことに、私はなにより打ちのめされた。

私は就職も決まらず、彼氏にはふられ、一人で2000円しかしないドヤ街の独房みたいな宿に泊まり、ランチパックをいちにちの唯一の食事にして、それでも就活を頑張った。

すると、とある会社で面接を受けた時、面接官の一人が、私の本に興味を示してくれた。
私は彼に本を売って欲しいと言われて、本を売った。
その会社の人が私に興味を持ってくれて、トントン拍子に私は四次面接も受かり、その会社に合格した。
本を出版したおかげで、会社に受かることができた。

私が合格した唯一の会社は、広告会社。
私は青森から東京に出てきて、広告会社で働くことになった。
コピーライトの専属担当という仕事は、今は廃止されたということだったが、まだそういう仕事を受けることもあり、営業の採用だが、ゆくゆくはコピーの仕事もしてみたいと私は思った。

東京での一人暮らしが始まる。
私はこの新しい土地でも、青森で培った経験を活かして、会社以外でも、文章の仕事をもらおうと思った。
東京なら青森よりも、さらに文章の仕事があるはず。

ところが青森で暮らしていたときのように、あちこちに本を送っても、文章の仕事はないかメールを送っても、返事は全くどこからも返ってこなかった。
すぐに返事がきた青森と違う。
うまくいかない。

私は文章の仕事を求めて、文章を書く人が集うと言われる「新宿ゴールデン街」に行ってみることにした。
そこには確かに小説を書く人たちがいた。漫画家がいた、音楽家がいた、演劇をやる人、漫才をやる人、能をやる人、映画をやる人、色々な人がいた。

私は文章の仕事を求めて、色々な人たちと知り合っていった。
しかしそれを文章の仕事に結びつけることが出来ない。
さらに東京は毎日刺激が強すぎて、そして飲み屋はギラギラした人が多すぎて、次第に素朴で文章を書くのが好きなだけの、なんの肩書きもない小さな私は、くすぶるようになっていった。

青森でのきらめきは影を潜め、私は自分がとるに足りないつまらない人間だと思うようになった。
お酒を飲み、小説も上手く書けない。
仕事は厳しい。彼氏はできない。刺激的で楽しい毎日。仕事が忙しい。お酒。遊び。頑張りたいけど、どうしていいかわからない。やっぱり小説が上手く書けない‥。

私はすっかり東京の毒気にあてられ、疲れてしまった。
私は東京に向いている人間では無かったと思った。
青森に帰りたいけど、もう居場所はない。
北海道に帰りたいけど、もう戻れない。

思い余って函館新聞社の求人に応募した。
また青森にいたときみたいに、新聞社で仕事しよう。人生をたて直そう‥。

すると函館新聞社の面接官は、「うちにくると、君の今の給料は半分になってしまう。君に来て欲しいとは思うよ。だけど、せっかくいい会社に入ったんだから、もう少し頑張ってごらん」と優しく励ましてくれた。

私は函館新聞社に合格したが、助言してくれた方の優しさに甘えて、辞退することにした。
もう少し、頑張るんだ。
まだ精神が擦り切れてはいない。
きっとまだ、私は頑張れる。

私はこらえて頑張った。

それから‥。
私は結婚して、会社を退職することになった。
お腹に赤ちゃんがいて、相手が佐賀県の人だから、退職して引っ越すほかなかった。

私は子育てに奮闘することになった。
全く小説を書くことなんかできなくなった。

文章を書けないまま、四年がたった。
子供が幼稚園に入ると、私はようやく久しぶりに小説を書き始めた。
そして最初に書いた小説を応募し、その「革命のアイリ!」が、ポプラ社の小説賞で最終選考に入った。

驚いて、他の小説賞にも応募してみた。
するとすぐに集英社で優秀賞をとった。
しかも同年、育った娘の好きなものを詰め込んだ「メチャ盛りユーチューバーアイドルいおん⭐︎」が小学館で金賞をとり、いきなり出版、小説家デビューを果たした。

今まであんなにかかってできなかったことが、突如として立て続けにできたのだった。
夢を叶えるまで30年が経っていた。

現在に、至る。

今の私は、上手く小説のプロットが書けずに、本を出せずにいる。
小学館の担当さんも集英社の担当さんもとてもよくしてくれて、毎回アドバイスをくれるのに、申し訳ない気持ちだ。

集英社の担当さんは、「本が出るまで、作家さんが諦めるまで、私たちも諦めません」と言ってくれている。
「だから山本さんも、諦めないでついてきてください」

そんなのもちろん、私は小説をかくのを諦めたりなんかしない。

酷い目にもあった。
何度賞に落ちたかも、もうわからない。
デビューするまで、じつに30年。

だけど私は、一度も夢を諦めたことはない。

2冊目の本。出せるかなんてわからない。
だけど私は諦めない。
諦めたところで私は、「夢を諦めた人」になる。
だけど諦めなければ、生涯私は「夢を諦めない人」のままだ。
100年経ったって、私が夢を諦めるなんてことはない。

諦めない人。
それが、夢を叶える人なんだ。

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