2024,5,29

なぜか、アウトプットの重要性について記されたnoteをよくみかける今日この頃、。
私もそのまねごと?第一歩として、読んだ記事についてまとめるとともに、意見を述べる練習の場として。


記事の要約的なもの

広告のジェンダー表現について知見を深めるため、新宿・歌舞伎町でホストクラブ看板の観察に赴いた写真研究家の著者。
アドトラックで用いられているような写真が駐車場を囲うように掲載され、ランドマークのような役割を果たしているエリアがある。

どれも客を誘惑するような写真でありながら、店舗ごとの特徴、キャラクターを活かした加工、背景エフェクト、文字の書体や色となっているという。

ツケを実施しないことを明確に表記する広告や、定期的に張り替えられる広告の在り方に、業界の構造と競争を垣間見ることができる

学び📝

文言は、日の高い時間に冷静に眺めてみると、大仰さと可笑しみを感じるのですが、このような異常なまでのサイズ感や言葉の感覚が、繁華街の中で人を浮き足だった気持ちにさせ、欲望のタガを外すような役割を果たしているのかもしれません。

大きい、とか、夜、ってだけで人の理性・意思決定が揺らぎやすくなるのか。夜にネットショッピングしないほうがいいみたいな。
大きさが自信や権力の象徴として立ちはだかるやいなや、”言葉の感覚のものさし”が”ひれ伏す前提”のものさしに取って代わるのかもしれない。

掲載されていた動画も拝見した。
わたしは独り暮らししてから物欲がなくなったとか、買い物に理性が働くようになったと思っていたけど、明らかに広告や誘惑に触れる量が変わったんだった。(電車に乗る頻度、テレビを見る頻度、都会に出る頻度)

広告は消費者の行動を促す第一番目の要因ではなくても、日々の刷り込みによって上位の選択肢に入ることができる。
AIDMAとかAISASとかいろいろ言われるけど、そもそも選択肢に入ることが大事なんだな。

ジャニオタをしていたときは、推しが主要駅で大々的に広告掲載されていると、デビューしたんだな、とか、売れたな~とか推しの話なのに、ほこらしげになったり、うれしくなったりしていた。
ジャニオタたちは、別にSNSとかでも見れるんだけど、実際現地に足を運んで、自分のグッズと一緒に、あるいは自分自身を写して写真を撮っていた。それは、広告の真正面の使い方、使われ方ではないんだよね(笑)


広告の作り手の思考?

①ターゲットかもしれない人の視線を誘導
→グラフィカル、動き、象徴的な部分の強調、視認性、デザイン・構図
②記憶に刷り込む
→キャッチ―な言葉、人物、色、回数
③そのうえで、よりターゲットが集まる地点に掲載する
→場所・時間など

違うパターンとして、

①ターゲットかもしれない人の視線を誘導したあと、
②じっくり見るタイプの広告もある。
つまりそれは、広告を気に留めた時点で、商材が自分事になっているということ。
オタクが推しをしっかり見るのと同じように、
広告に立ち止まって、なんなら待ち合わせスポットになったりして。

目に映る広告が喧騒のなかにある背景とかしてしまうか、
記憶や感情を少しでも刺激するものになるか、
そんな風に広告はつくられているんだ~

もっと知見深めていきたいな💭



消費者・受け手目線で言ったら

性愛や競争心が活力の源になることもあるとは思うのですが、日々接する膨大な数の広告は、欲望を過剰に喚起し、本当に必要なのか、心の底から求めているのかすらもわからないものやサービス、人との関係への依存状態を作り出しているのかもしれません。看板に並ぶホスト達の顔と文言を眺めながら、際限なく欲望を駆動する消費のシステムの空疎さや、そこから逃れられない人々が負う心の傷に思いを巡らさずにはいられませんでした。

日々過ごしているだけで、別に今使わないものとか、自分に関係ないものも選択肢として視聴覚に訴えかけてくる社会は、煩いよな。
電車ってうるさい、人ごみをかわすように歩くのは疲れる、それってつまり選択肢が多くて悩んでしまう、大切に向き合いたいのに、気を取られてしまうってこと。そんなことを思い出させられた。

受け手を主語にしたとき、広告に惑わされないように生きるにはどうしたらいいんだろう?


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