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雨だよ、おばあちゃん

天上で特大のたらいをひっくり返したかのような雨が降った。
ほんの一瞬、自宅にまだ繋いである固定電話が鳴らないかと思う。
「雨は漏ってないかね?大丈夫?」
土砂降りになるといつもそこにかけてくる祖母はもういないというのに。

私は祖母の残した家に住んでいる。彼女が一人で暮らしていくことが覚束なくなり、いよいよ老人ホームに入るとなったとき、空き家にしておくのは不安だね、という話の流れで私が住まわせてもらうことになった。
当時、私は精神的にボロボロのひきこもり状態な上に、両親との不仲で事態は悪化するばかりだった。祖母の好意を機に、安心できる場所でひとりで暮らしを立て直せたことで、ようやく暗たんとした沼から救い出されたのだ。

祖母が子供を産んですぐに建てたこの家は、こじんまりとして無駄がない。なにせ古い上に、頑丈な造りではないから、雨風が強いと屋根や壁が壊れるんじゃないかという音を立て、すきま風やじっとりと包みこむ湿気に悩まされる。台風はもちろん、集中豪雨の予報が出たときには、早々に雨戸を閉めないと大変なことになる、と教わっていた。

雨や風が外でひどい音を立て始めると家の電話が鳴った。
「今日はすごい雨だけど、そっちは大丈夫かね? 雨は漏ってないかね? おばあちゃん帰ろうか。」
老人ホームからの電話で、心底心配そうな声で祖母が言うことは毎回だいたい同じだった。安心する答えを探しながら、でも「帰れないんだよ」とは言えず、どうにかなだめるように、気まずく電話を切った。
ほんの5分もない短いやりとりだったように思う。梅雨の季節になれば、この受け答えが繰り返される日々に、濁音の雨音の中でベルの音を無視するときもあった。

祖母の家に転がり込んだことを、彼女の陥った苦境を利用したようだったと感じている。あのときの私は、今の生活から逃げたいという自分勝手な理屈で動いたに違いなかった。
それなのに彼女は、
「あんたが住んでてくれるから」
「凛子ちゃんが家にいるから頼もしい」
と、柔らかなしわを目尻に寄せながら、「ありがとうね」と私の顔を覗き込んで何度も言うのだった。腕に置かれた手の温かさを感じながら、複雑に入り組んだ私の心は整理できない感情でいっぱいになった。
「ひきこもり」という祖母に耳慣れないだろう言葉はもちろん、自分の中で渦巻いていたものを説明する勇気もなく、ただ困ったように頷くしかできなかった。雨の日の電話も、口数が少ないままに終わってしまったのは、自分の不甲斐なさに気づかれたくないという思いがあったからだ。

私は祖母が大好きだった、と今も昔も分かってはいるのに、あまり素直に話せなかった。いつもどこか冷めていて、しっかりした「いい子」でいようと緊張しているものだからぎこちなく、ただの子供という顔は見せられなかった。そういう部分が自分の中にちゃんとあったと今は知っている。甘えたり、相談したり、自分が好きなものを知ってもらったり、祖母の人生についてあれこれ聞いたりしなかった。頭の中で、本当はそうしたかった、祖母との楽し気な会話を想像していたのだけれど。

そんな想像は頭でこんがらがったままで、祖母はもう会えない人となった。

2年前から精神科に通い始め、投薬とカウンセリングを受ける日々になって、私は変わったと思っている。もちろん、理想的な人間になったというわけではないけれど、昔よりもずっと自分を受け入れられるようになった。感情や思考、過去の経験を整理して捉えはじめていて、細く張ったアンテナから素直な回路が通り、より人間らしくいられる時間が増えた。

今、電話がかかってきたなら、祖母に聞かせたいことがたくさんある。
雨戸を閉めようとしたらヤモリが2匹も出てきて叫んでしまったこと。中途半端に雨戸を出していたら、隙間から戸袋にスズメが入って糞まみれになっていたけど、許したこと。居間の床板が風で軋んで人の声みたいな妙な音を立てて、ちょっと怖いこと。

祖母がコンクリートの整えられた部屋で、きっと寂しくて家のことを想うのだろうと、私も打ち付ける雨音を聞きながら寂しく頭を巡らすから、そう分かるのだ。おしゃべり好きの祖母が、祖父のいなくなったこの家や、ホームの一室で何を考えたのか、私も知りたいと思う。

祖母に伝えたい。
私はようやく「私」として少し成長したから、
だから、今ならもっと正直に想いを伝えて、分かり合うことができると。彼女をどれだけ慕っていたか、何が苦しかったか、いつも何を考えていたか、どうしてあんなことをしてしまったか、全部、ちゃんと説明できると。
今頃やっと、出来るようになったんだと、話したい。

こんなに天国があったらいいと思う日がくるとは。祖母は笑うだろう。


今流れているのは鬱の冷たい涙とは違う。愛情が強く、強く、その存在を主張するがゆえの涙。胸を温める感情があふれ出し、満ちる潮のように心の奥からずっと押し流してくるもの。
人生は不思議なものだ。あんなに不器用だった自分が信じられないほどに、私は梅雨に覆われた家の中で、祖母を想いながら素直に涙を流している。

「おばあちゃんがなつかしい。雨がすごいから。」
母に電話してそんな話をした。

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