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ネイルを塗るという行い

私は頻繁に爪に綺麗なマニキュアを塗る。
理由がある。そこしか好きになれないのだ。
形を整え、好みの色を注意深く塗り終えた10枚の爪はひらひらと動き、自分の視界に色と光を散りばめる。
私の爪だけはきれいだと、自分にもきれいな部分があるのだと、スキという気持ちを気づかせてくれる。
「そんなことない、きれいですよ」とか言ってもらえるのだろう、人間だからね。言いますよね?
でも理屈ではなく、言ってもらえても、ほぼほぼ嬉しくないのです。
(というかそもそも出し抜けにきれいですよ、って言われて嬉しい人ってそんないるか?って思ったりもする。)
とにかく私という人間はヘドロでできているのだ。


ひきこもりから出てきた2年ほど前のある日、別にネイルを塗ったっていいじゃないかと気づいた。
なぜなのか母にどう思うか相談して「そりゃ、いいんじゃない?」との真っ当な返事をもらった。許可が出た、と妙に高揚した。
別にそれまで止められていたわけではないのだが、ひきこもっている間はとにかく自分には何もする権利がないと思い込んでいた。
余分なお金を使いたくないし、お洒落や美容なんてもっての外だ。
そんなものに労力をかけて一体何のためになるのだ?誰が喜ぶ?誰も見ないじゃないか、ひとりでいる私のことなんて。
女性らしい部分を一つでも残しておけない。手をかけないでみすぼらしくいることが私のあるべき姿だ。義務を果たしてると言ってもいい。
意味不明でばかばかしいが、気づくのには随分と年月が費やされた。
本当に長く長く。
——私のため。きれいな自分を見たいと思ってる私がいる。


顔や髪と違って爪はゆうてもただの爪でしかない。上から誰かが作った色を塗ればその色の1枚が出来上がる。鏡も見なくていい。
厳密に言うと、指の形が~肌が~となるが爪だけ見てればそれでよし。
今の私の爪はsaezuriというくすんだ淡いグリーンで、角度によって微妙なピンク色の微細なパールが見え隠れする複雑な色だ。
その時の気分次第で好きなだけ雰囲気を変えられるのもいい。スキな場所が一つでも近くにあるということは心強い。
手元の動きに集中することで、私の脳内は今、ここに、時を留めてくれる。
ネイルを塗ることは私のストレス対処方のひとつとなった。

問題は爪が自分自身になじむと、”わたしのからだ”という意識が強くなり、じわじわ嫌になってくることだ。きれいには思えなくなる。
これは本当に困っている。
嫌になる度に塗り替えれば爪がボロボロになってしまう。
なにせヘドロでできている、とか思っているからこうなるのだろう。
自分をちゃんと好きになってあげないといけないのでしょうね。

だから世の感覚はどうなっているか分からないが、私が爪をとりわけ綺麗な色で塗ってラメなんかも散りばめているときは結構ヤバイのだ。
5本以上にアートを施していたら相当ヤバイ。
これに加えて大振りのピアスが目立っていたらもはや武装といっていい。

でもワンチャン、とても調子がよくてオシャレを楽しめている可能性も否定できません。
女心とは複雑だ。

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