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日記:出くわす甘美

久しぶりにマフィンを焼いたらめっちゃ美味しくできた。
オートミールとココナッツのマフィン。
作ってる時から「なんか今回の子(マフィン)は上手くいく気がする」と思っていた。楽し気に鼻歌なんかにメロディーを乗っけながら、ていねいに手を動かしているしている私がいるからだ。

私はだいたい面倒くさがり屋出力最大レベルで生きていて、料理も気が向いたらやる程度。そのくせその「気が向いた」時でさえも、これ終わったら何しようとか、本当はこんなもんじゃなくて別のリッチなものが食べたいのにとか、混沌とした思考に支配されながら、身体を無意識の労働者として動かしている。そんな状態で作った料理というのは、やはりなんか欠けているのは当然で、お菓子に至っては無意識配合のせいで失敗したりする。

今日はなぜ我が意識を手元に置けたかというと、先日、手作りのバナナマフィンを振る舞われ、私の感情が「歓喜」という場所に上り詰めた、という事件が起きたからだ。人と関わりの少ないひきこもりにとってはもはや事件扱いになるの、分かってもらえるだろうか……。


日常の中で家族以外のフツーの人の手作りに出くわすことって少ないのだ。日本人って(というとまるで外国にかぶれ倒した風に聞こえるから言いたくないんだけど)、手土産と言えば「どこそこで買ったアレです」という、工業製品のような完成品を渡すことが上品な振舞いと考える人が多いと感じる。無難であり、安全である、周知されたブランド品でキメる。それも確かに嬉しいんだけれど。

超短い海外滞在の間、「ハーイ」と欧米特有のスマイルで入ってきた人が、片手に焼いてきたクッキーだの、魚やパスタをオーブンに突っ込んでおしゃれにキメた大皿だのを持ってきたところに加わる機会があった。アフターコロナの今ではちょっと習慣も変わったのか分からないけれど、滞在日数のわりに何度かこういうサービス精神にありつけたのは幸運だったかもしれない。私はその文化がめちゃくちゃに気に入ったのだから。
それぞれ違う個性を持った誰かが、日常の中で人のために振る舞う食べ物というのは、どうしてあんなに頭を痺れさせるように美味しいのだろう。
あの味は甘美というものだ。

だから読書会という場所でバナナマフィンが登場し、(しかもバナナマフィンっていう、作り方も味も優しさ極まる食べ物ってところがまた堪らないのだ!)、私はもう、キャーーーー!!! と跳ね上がらんばかりだった。殺風景な会議室でもう十分な年齢になっているのを自覚し、どうにか赤面する事態を回避し、自分を抑えられたことを褒めたい。
その感動は2日たった今でも私の荒みきった心をぬくぬくと埋め、鼻歌マフィンを作り始めるという行動にまで身体を押し出した。


ありがとうございます、本当に。何に対してなのか分からないほどに全部に感謝している。
だって多分、過去に会った人ともらった手作りの料理を食べた記憶と、今の生活で突然向けられた気づかいや生身の人が放つ熱量、その間で落ちていった気分も、望んでも得られなかった経験も、全部なかったら今日のマフィンは美味しく作れなかっただろうと思ったのだ。
なんか色々経験してよかったという想いが、ふっくらとした小さな焼き菓子に引き寄せられた今日、日記を書いておこう。

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